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本論から逸れるつもりはないのですが、少し脱線気味になったことをお詫びします。もとの話に戻りましょう。仕事はキリスト信者にとって欠くことのできない本質的部分であることを得心してください。どこで何をしていようと、動機が何であろうと、自分の選んだ職業によって聖人になれと、主は仰せになります。神法に反していない限りどのような仕事も貴く、神の子としての生き方の特徴というべき神愛の流れに乗っている、と言えます。

 仕事の話をすると、貧乏くじを引いたような顔をして、時間が足りない、時間が足りない、と言うくせに、その実、利己主義や、せいぜい人間的な動機だけで働く、同僚の仕事量の半分もできていない人をみると、心配になってしまいます。ここにいる私たちは皆、イエスとの個人的な話し合いを中断することなく、医者、弁護士、会計士といった仕事に従事しています。同僚の中で職業上の名声のある人、真面目な人、無欲の奉仕をする人のことを考えてごらんなさい。仕事のためなら、昼夜を問わず何時間も費やしているではありませんか。学ぶべきところがあるのではないでしょうか。

 こうお話ししながら、私も自分の行いを糾明しています。この質問を自分に投げかけるとき、少々恥ずかしくなって神に赦しをお願いします。私の応じ方があまりにも弱々しく、神がこの世で私たちにお任せになった使命から遠く離れているように思えるからです。ある教父は書いています。「キリストは私たちをこの世に誕生させてくださった。それは私たちが人々の灯となり師となって、パン種の働きをするためであった。また、人々の間にあっては天使のごとく、子供の中では大人らしく、理性だけをふりかざす人間の間では霊的な人となって、種子となり実を稔らせるようにとの思し召しであった。私たちの生活がこのように輝くなら、口を開く必要はないだろう。模範を示せば、言葉は不要である。私たちが真のキリスト者であるならば、異教徒がいるはずはない」12。

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