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働きずくめの一日を終え、翌朝早く町へ帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。遠くに見事に生い茂る無花果の木が見えたので飢えを満たすために近づかれます。聖マルコによると「いちじくの季節では」26ありませんでした。実のならない季節であることはご存じでしたが、イエスは近寄って実を取ろうとなさったのです。葉を沢山生い茂らせ、いかにも実をつけているかのように見えたその木に、一つとして実のないことをごらんになった主は、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」27と仰せになりました。

 以後決してお前から実を食べる者がないように!何とも厳しい言葉ではありませんか。弟子たちの驚きはいかばかりだったでしょう。英知の神の言葉であることを考えれば、おさらのことです。イエスは木を呪ったのです。

 枝葉だけを茂らせた見せかけだけで、実はなかったからです。これで、効果を上げえない自分を弁解する余地のないことが明らかになりました。「まだ私は知識不足ですから…」と言う人がいるかもしれませんが、理由にはなりません。「病気ですから…」、「あまり才能に恵まれていないものですから」、「条件が揃いません」、「環境が悪いから」、いずれも弁解としては通用しません。偽りの使徒職という枝葉だけで自分を飾りたてる人、真面目に成果を上げようとせず、外見のみ生活を充実させているように繕う人、いずれもかわいそうな人々ではありませんか。やたらと動き回って組織作りに精を出して、万能薬のような解決法を考案しようと計画ばかり立てる人々、彼らも時間を活用している振りはするが、成果を上げることができない。超自然の樹液がなければ、実をつけることはできないのです。

 常に効果を上げるために、勇敢な心構えをもって働くことができるよう、主にお願いしましょう。近寄ってみると輝くばかりの大きな葉のみの人、けばけばしい飾り以外は何もない人が、この世には大勢いるからです。神への飢えを満たして欲しいという思いを込めて、私たちを待っている人々がいます。たとえ弱いところだらけの私たちではあっても、教えはよく知っており、神の恩寵が欠けることもありません。必要な手段はすべて持っていることを忘れるわけにはゆかないのです。

聖書への参照
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