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時間潰しが本業であるかのように日々を送るとすれば、人生は何と勿体ないことでしょう。時間とは神から授かる宝ですから、このような態度に弁解の余地はありません。「一タラントンしかなくても功徳を積むことができるのだ」20。多少の差こそあれ、神が人々にお与えになった能力を、人々と社会に貢献するため、充分に発揮しないとすれば何と残念なことでしょう。

 キリスト者でありながら時間を<潰す>なら、自らの殻に閉じこもり、責任を逃避して無関心になるならば、天国を<潰す>危険を冒すことになります。ところで、神を愛する人は所有物のみならず、自分自身をも捧げます。健康や名前や経歴において自分のことしか考えないという卑しい態度はとらないのです。

 大勢の人々はいつも、「私の…、私の…」と考えたり、言ったり、行ったりしています。自分のこと以外は何の関心もないかのようです。何とも耐え難い態度ではありませんか。聖イエロニモは書いています。「『罪の言いわけを探すために…』(詩編140・4)という聖書の言葉は、傲慢の罪に加えて不注意や怠慢の罪を犯す人々において、文字通り実現する」21と。

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