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ぶん、あなたは言うかもしれない。どうして私が努力しなければならないのか。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てる」10からであると、聖パウロが答えてくれます。愛徳の領域を広めるために一生は短すぎるからです。広い心で実行する決心を立てて欲しいので、倦まず弛まず次のように繰り返してきました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」11。ほかでもないこの愛徳をみて、人々は私たちがキリスト者であることを認めるでしょう。どのような活動に従事するにしても、信者の活動の出発点は愛徳ですから。

 キリストは純潔この上ない方でしたが、清い生活こそ弟子と認められるためのしるしであるとは仰せになりませんでした。主は節制に徹したお方で、枕するところもなく12何日も祈りと断食13で過ごされましたが、「あなたたちが大食漢や大酒飲みでなければ、人々はあなたたちをわたしの弟子であると認めるであろう」とも、仰せになりませんでした。

 いつになっても同じことが起こります。過去においてもキリストの清らかな生活は、今もよく見られるように、腐敗した当時の社会に大きな平手打ちを食わせました。宴会に明け暮れる人々、食っては吐き、吐いては食う輩、「神は自分の腹である」14という、サウロ(パウロ)の言葉を自ら地で行くがごとき人々に、キリストの節制は鞭打ちのような衝撃を与えました。

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