37

宴会に招かれた人たちの喩えの中で、晩餐に出席すべき人々の幾人かは、理由にならない理由をあげて招待を断りました。すると家長は召使いに命令します。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来なさい」43。これは強制ではないでしょうか。各々が有する良心の正当な自由を無視して、暴力を用いるに等しいと言うべきではないでしょうか。

 福音書をよく読み、イエスの教えを深く黙想してみると、家長の命令は決して強制ではないことが分かるでしょう。キリストが、いつも、どのような方法で勧めをお与えになるかをごらんなさい。「もしあなたが完全になりたいなら…」、「もし私の跡に従いたいと思うなら…」、仰せになります。この章句の「無理にでも連れて来なさい」という命令は、物理的強制でも精神的強制でもありません。信者の強い模範の力を示すところです。キリスト者の行いのうちに神の力が働くことを示しているのです。「御父がどのように人を引きつけられるかを見よ。無理に引き寄せるのではなく、喜んで教えることによって、人をお引き寄せになるのだ」44。

 このように自由な雰囲気のなかで呼吸するなら、悪を行うことは、解放ではなく、隷属であることが明らかになります。「神に対して罪を犯すものは、強制からの自由という意味では自由意志を持ち続けるが、罪からの自由という点ではそれを失う」45。自分の好みに従って行動したのだ、言えるかもしれませんが、真の自由を享受するには至らないでしょう。神不在、つまり最悪のものを選んだわけで、自由になるどころか、最悪なものの奴隷になり下がったわけですから。

聖書への参照
この点を別の言語で