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神に対する責任

「主が初めに人間を造られたとき、自分で判断する力をお与えになった(シラ書15・14)。人間に自由選択の力がなかったとしたら、このことはありえなかったであろう」41。私たちは、自由に行う行為すべてについて、神の前で責任を負わねばなりません。匿名は認められないのです。人は主の前に立っており、神の友として生きるか敵として生きるかの決定は、自分の意志ひとつで決まるからです。こうして心の戦いが始まります。そして、その戦いは一生の続きます。この世での歩みを続けている間は、完全な自由を得る人はいないからです。

 さらに、キリスト教の信仰があれば、信仰を提示するときに、あらゆる種類のごまかしと強制を避けると同時に、すべての人々の自由を保証することができます。「もしキリストのもとに引きずられて行くなら、いやいやながら信じることになる。そのとき用いられるのは自由ではなく暴力である。望まなくても、人は教会の一員になることができ、祭壇に近づくこともできる。欲せずとも、秘跡にあずかることさえできるだろう。しかし、信じることができるのは、自ら望むものだけである」42。分別のつく年齢に達した人が教会の一員になるためには、また、主の絶え間ない呼びかけに応えるには、自由に決意すべきであることは明らかです。

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