31

しかし、やがて、全霊を込めて愛するものを手に入れれば、もうそれ以上は探し求めなくなるのではないか、自由は消えてしまうのではないかと、危惧されるかもしれません。実は、その時こそ、自由は一層自由になったと言えます。本当の愛があれば、習慣的に義務を果たすことで満足することもなければ、不快感を味わうことも、無関心に陥ることもないからです。愛するとは、毎日仕え直すこと、愛情のこもった行いを実行することです。

 皆さん一人ひとりの心に、火と燃える文字で深く刻み込んで欲しいので、重ねて申し上げたい。自由と献身は決して矛盾するものではない、かえって互いに助け合うものであると。愛があってこそ、自由を捧げることができます。愛がなければ、自由を捧げることはできないのです。当たらずとも遠からず式に言葉を弄んでいるわけではありません。自ら進んで献身するなら、、献身は自由の結果ですから、一つひとつのの献身の行為が愛を新たにすることになります。そして、献身を新たにするとは、若さと寛大さを失わず、大きな理想をもち続けて、大きな犠牲を払う力を維持することです。ポルトガル語で若者のことを<新しい人たち>と呼ぶと知ったとき、たいそう嬉しかったことを覚えています。若者とは実に<新しい人>のことです。このような話をするのは、私自身もうかなりの歳ですが、「わたしの若さを喜びで満たす神」28に向かって祭壇のもとで祈るとき、本当に若々しい力を感じるからです。自分が年寄りだと思ったことはありません。忠実に神に留まるなら、神の愛は私を絶えず生き生きとさせ、鷲のような若さを保たせてくださいます29。

 自由を愛するがゆえに我が身を縛る。高慢になったときのみ、このような状態を鎖のように重たく感じるようになります。心の柔和で謙遜なキリストは、真実の謙遜についてお教えになりましたが、本当に謙遜であれば、主のくびきは快くその荷は軽い30こと、またそのくびきこそ自由であり、愛、一致であり、生命であること、くびきこそ主が十字架上で勝ち得てくださった宝であることが理解できるはずです。

この点を別の言語で