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ところで、イエス・キリストと共に生きるなら、必ず主の十字架に出会うことを忘れてはなりません。神の手に自己を委ねると、主は、内外からの苦痛、孤独、反対、中傷、名誉毀損、潮笑を味わうに任せられることがしばしばあります。私たちが主に似た者となるようにお望みだからです。さらには気違いと呼ばれ、馬鹿者扱いされることさえお許しになることもあります。

思いがけないときに、こっそりと、あるいは横柄無礼にも正面から訪れる犠牲の機会を愛すべき時が来たのです。狼に投げつけるはずの石が羊を傷つける。キリストに従う人が、愛してくれるはずの人々の不信や疑惑、果ては憎しみまで、もろに体験します。彼らは、神との個人的な交わりや内的生活を信じることができず、猜疑心にかられてそんなことは嘘だと思い込む。ところが、無神論者、宗教に無関心な人、偏狭な人、粗野で厚顔な人々に対しては、臆面もなく優しく理解ある態度を示すのです。

きっと主はご自分の弟子が名指しで侮辱の槍玉に上げられることをお許しになるのでしょう。こういう個人攻撃の手段は、それを用いる人にとっても恥ずべき行為です。陳腐で常套的な攻撃であり、嘘偽りを大々的に宣伝した結果、邪悪と偏見にみちた流言飛語です。すべての人が慎みと良い嗜みとに恵まれているとは限りません。

不確かな神学と弛み切った倫理道徳を支持する人々、ヒッピーまがいの規律に則り、疑わしい典礼を司式する人々や無責任な統治者が、イエス・キリストのことしか話さない人々に対して、嫉妬や疑惑や讒言だけでなく侮辱と冷遇と辱め、あらゆる種類の悪評や厭がらせを流布したとて、不思議なことではありません。

イエスはこのような体験をさせながら私たちの霊魂を彫りあげ完成されます。しかし主のおかげで、内的平和と喜びを失うことはない。悪魔でさえ、百の嘘をもってしても一つの真理のデッチ上げも不可能であることを、よく知っているからです。また、平穏な生活を望むならば、かえって平穏な生活を諦める決心をしなければならぬことも充分承知していますから。

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