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このような人たちは、<自由を通せん坊>しています。間違いなく自由を持ちながら、自由、自由と叫ぶだけで自由を行使せず、浅はかな理解力に頼って泥の偶像をこねあげ、安置して眺める。これが自由と言えるでしょうか。真剣に努力して人生を歩まなければ、たとえ自由という宝を持っていても、宝の持ち腐れというものです。そんなことになれば、人間の品位と尊厳に反してしまいます。この地上でどう歩むかを示す道と確かな道順を知らないからです。皆さんも出会ったことがあるでしよう。このような人々はいずれも、虚栄心や自負心が子供のように強くて、利己主義や快楽に引きずられるままになってしまいます。

 彼らの言う自由とは不毛であることがすぐに暴露されるか、あるいは人間的にみても馬鹿げた実を結ぶほかありません。正しい行動の規範を自ら自由に選ばなければ、遅かれ早かれ、他人の支配下に落ち、寄生虫のように他人任せで、無感覚な人生を送るはめに陥ることでしょう。風のままになびき、いつも他人に事を決めてもらう。このような人たちは、「風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木」26。だから、絶えまないお喋りと取繕いで時を過ごし、人格と勇気と誠実さに欠けた状態を覆い隠そうとする。

 誰からも、どのような強制も受けていないと、しつこく繰り返す。しかし、自ら自由に決定を下し、そこから生ずる結果に対して責任をとる勇気も中身もない自由は、あらゆる種類の束縛を受けているのです。神の愛のないところでは、個人の自由を各自が責任をもって行使することなどできません。見かけはどうあれ、すべてのものから強制を受けます。物事をはっきりさせない優柔不断な人は、鋳型のままに形が変わる粘土ですから、誰にでも簡単に、好きなように形を変えられてしまいます。なかでも、原罪の傷を負う本性の情欲と悪への傾きには、簡単に負けてしまうのです。

聖書への参照
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