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ところが今、十字架の犠牲の躓きのさなか、聖母マリアはそこに留まり、「通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしる」のを悲しみの心で耳にする。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」26。聖母は御子の言葉を聞き、御子の苦しみを自分の苦しみとする。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」27。マリアに何ができたというのでしょう。贖い主である御子の愛に一致して、汚れのないみ心は鋭い刃で突き刺される。マリアは筆舌に尽くしがたい苦痛を、御父に捧げるほかはなかったのです。

愛の心でひっそりと傍らに佇むマリアを見て、イエスは再び慰めを感じる。マリアは大声を上げたり、気ぜわしく動き回ったりしない。御子の傍らに「立っておられる」。イエスは聖母に目を遣り、ついでヨハネに目を向ける。そして、「見なさい。あなたの母です」28と言われた。ヨハネを代表として全人類を、とりわけ主を信じるはずであった弟子たちを、御母に委ねたのです。

「幸いなる罪」29と教会は歌います。あの罪のおかげで、これほど偉大な贖い主を得ることができたからです。私たちも、幸いなる罪よ、繰り返しましょう。マリアを母として受けることができました。もう私たちが不安に心を乱される恐れはないのです。天と地の女王として冠をいただく聖母は、神のみ前で全能の嘆願者です。イエスはマリアの願いを拒みません。ところで、私たちは聖母の子ですから、私たちの願いを拒むこともできないのです。

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