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愛の先生マリア。神殿でイエスを奉献する場面を思い出してください。長老シメオンは、「母親のマリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―』」22。人々に対するマリアの愛は実に深く、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」23というキリストの教えは、人々に深い愛を注ぐマリアにおいて実現しました。

歴代の教皇が、マリアを贖いの協力者と呼んだのは、もっともなことです。「苦痛に引きさかれ、死に瀕する御子の傍らで、マリアは死なんばかりに苦しんだ。そして、母が子に関して持つすべての権利を、人類の救いのために放棄し、神の正義をなだめるために自分に属するすべてのものを差し出した。それゆえ、聖母はキリストと共に人類を贖ったと、充分な根拠をもって断言できる」24。このように考えると、主の受難のあの瞬間が、さらに深く理解できるのではないでしょうか。「イエスの十字架の傍らには、その(…)が立っていた」25。もちろん、この場面を充分と言えるまで黙想するのは至難のわざでしょうが…。

息子たちが栄誉を勝ち取り人々の尊敬を浴びるとき、当然ながら大急ぎで子供の傍に立つ母親は大勢います。逆に、そのような機会が訪れても、子を愛する心は人一倍とは言え、沈黙して人前に姿を現さない母親も少しはいます。聖母がそうでした。イエスはそれをよくご存じだったのです。

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