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聖母への熱烈な愛はあるが、充分な神学の知識の不足している善良な信者さんが私に話してくれたことを披露しましょう。その純朴な心を考えれば、充分に教育を受けていない人ならそう考えて当然と思われます。

こんな風に言っていたのです。まあ、愚痴と思って聞いてください。近頃起こったことを二、三考えるにつけ感じる私の悲しみを察して欲しい。今回の公会議準備中と開始後も、聖母を<議題>の一つに数えることが提案されました。<議題>ですよ。子供が母親についてこんな口の利き方をするでしょうか。これが、信者が常に告白してきた信仰なのでしょうか。いったい、いつから聖母への愛が<議題>になって、その是非を云々することが許されるようになったのでしょう。

その人の話は続きます。愛と相容れないものがあるとすれば、それはけちな心です。はっきり言わせてもらいます。でないと、聖母を侮辱することになると思うのです。聖マリアを教会の母と呼ぶことは適当かどうかについて議論されたのですよ。あまり細かなことに触れたくはありませんが、神の母、それゆえすべての信者の母である御方が、洗礼を受けてマリアの御子キリストのうちに生まれかわった人々の集い、つまり、教会の母でないなんてことがありますか。

話はまだ終わりません。神の母という称号で聖母を賛美するのを渋るような心がいったいどこから出てくるのか、私には分からない。教会の信仰からずいぶんとかけ離れていることは確かでしょう。聖母を <議題>にするなんて。自分の母への愛を<議題>として扱うなどもってのほかです。子供は母を愛する、それで充分じゃないですか。よい子供なら<多く>愛する。<議題>や<案>というものは、無情で冷やかに研究する第三者の口にする言葉です。以上の打ち明け話は、純真素朴で信仰の篤い人の悪気のない敬虔な愚痴ですが、そこまで言えば、言いすぎになるでしょう。

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