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日常生活の使徒職

イエス・キリストの受難と死去の後にあったもう一つの漁に話を移しましょう。ペトロは三度もキリストを否みました。鶏が鳴いたとき、主の警告を思い出して謙遜な痛悔の念にかられて涙を流し、心の底から赦しを願いました。心から痛悔して復活の約束を待つ間に仕事で漁に出かけます。「この漁に関して、ペトロとゼベダイの子らはなぜ主に召される前に就いていた仕事に戻ったのかとよく問われる。わたしに従え、わたしはあなたたちを人を漁るものにしようとイエスが仰せになったとき、実は、彼らは漁師だったのだ。彼らの行動をいぶかる者に対しては、使徒たちの本職は正当で真面目な仕事であったから、禁じられていなかったと答えよう」24。

使徒職とは信者の「内臓を食い尽くす」と言えるほどの切なる願いですから、日常の仕事と切り離して考えることはできません。使徒職は仕事との見分けがつかなくなり、キリストとの個人的な出会いの場ともなります。同僚や友人、親戚の人たちと力を合わせて仕事を続けるならば、湖畔で待つキリストのところに行き着くよう、人々に助けの手を差し伸べることができるでしょう。弟子たちは使徒になる前は漁師、使徒となった後も漁師でした。職業を変える必要はなかったのです。

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