26

自由の意味

イエス・キリストの愛と同じく、無限の自由を完全に理解することは決してできないでしょう。しかし、主のこの上なく貴重な宝、すなわち寛大な燔祭を見ると、尋ねないわけにはいきません。なぜあなたは、私がみ跡に従うことも、あなたに逆らうこともできるようにしてくださったのですか。このように問いかければ、自由の使い方の正否を判断できるようになります。人が善に向かうなら、その自由の使い方は正しいが、愛のなかの愛を忘れて神から離れるなら、自由の行使において誤ったしるしです。ひとりの人間としての自由、私はこの自由を、今も、いつまでも、力の限り弁護するつもりですが、とにかくこの自由のおかげで、自分の弱さを知りつつも、大船に乗ったような気持ちで主に申し上げることができるのです。「主よ、何をお望みかおっしゃってください。そして、私が進んでそれを果たせますように」。

 キリストは答えてくださいます。「真理はあなたたちを自由な者とするだろう」13。ところで、生涯を貫く、この自由の道の始まりであり、終わりである真理とは、一体どのような真理のことなのでしょう。神と人間の関係を知れば当然もちうる、喜びと確信に満ちた答えを要約してみましょう。ここでいう真理とは、私たちが神のみ手から生まれ、至聖なる三位一体の深い愛の対象となり、かくも偉大な御父の子であるということ。この真理をよく自覚し、日々味わう決心ができるよう、主にお願いしましょう。そうすれば、自由な人間にふさわしい生き方ができます。しっかりと心に刻み込んでおいてください。神の子であることを知らない人なら、自分に最も近しい真理を知らないわけですから、何ものにもまして主を愛する人らしく、自らを支配し、自らに打ち勝つことはできないでしょう。

 天国を勝ち取るためには、ためらわず、たゆみなく、全く自発的に決意して、自由に道を切り拓いてゆかねばなりません。しかし、自由意志だけでは充分でなく、道標なり道案内なりが必要です。「魂が歩みを進めるためには、導き手がいる。それゆえ魂は、悪魔ではなく、キリストを王とすることのできるよう贖われたのである。悪魔の支配は耐え難いが、キリストのくびきは快く、その荷は軽い(マタイ11・30)」14。

 自由、自由、と声を大にして叫ぶ人々の欺瞞を退けなさい。そのような叫びは悲しむべき奴隷状態に陥っている証拠であることが多いのです。過ちを選べても自由であるとは言えません。私たちを自由にすることがおできになるのはキリストだけです15。主のみ、道であり、真理、生命です16から。

この点を別の言語で