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ごらんなさい。主が私たちに熱望しておられるのは、超自然的であると同時に人間的な素晴らしい歩み方です。このように歩んで行けば、喜んで自己を否定して、つまり苦しみを笑顔で受けとめて、自らを忘れることができるはずです。「わたしについて来たい者は、自分を捨てなさい」24。この教えを知らない人はいないでしょう。きっぱりと主に従う決心をしなければなりません。主が私たちをご自分のために道具としてお使いになることができるように、つまり、世界中のあらゆるところで、神のうちに留まりながら、塩となり、パン種となり、光となるために。こうして、神のうちに身を置くあなたは、周囲を照らし、味を与え、成長させ、発酵させることができるようになります。

しかし、私たちは光ではなく、単に光を反射するだけだということを、決して忘れないでください。人々に善行をさせるために後押しし、彼らの魂を救うのは、実は私たちではありません。私たちは質の良し悪しはあるにしても、神の救いの計画のための道具に過ぎないのです。万一、何らかの機会に、立派なことをしているのは自分だと考えるようなことがあれば、高慢、それも以前よりもさらに性質の悪い高慢にとりつかれているわけですから、やがて、塩は味を失い、酵母は腐り、光は闇に変わってしまうでしょう。

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