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以上はことごとく、ある人にとっては聞き慣れたこと、また他の人にとっては初めて耳にすることかもしれません。いずれの人にとっても困難なことです。しかし私は、命ある限り休みなく説き続けるつもりです、あらゆる時、あらゆる場所において、いつも祈りの人であることが第一に必要であると。神が私たちをお見捨てになるようなことは決してないからです。神と親しくすることについて、進退きわまったときにのみ神の助けを求めるのはキリスト者の態度ではありません。愛する人のことを忘れたり、軽く考えたりするのがまともな人だと思いますか。とんでもないことです。私たちの言葉や望みや思いは絶えず愛する人々に向かい、あたかもいつもその人が傍らにいるかのように感じます。神との付き合いにおいても同じことが起こるのです。

このような方法で主を探し求めれば、私たちの一日は朝から晩まで、神との親密な信頼に満ちた会話に変わる。これについては、幾度となく断言し、また書いてきましたが、ここで再び繰り返したいと思います。昼夜を分かたず絶えず祈り続けることが確実な生き方であることを、主が模範で示してくださいました。万事がうまく行くときは、「我が神よ、感謝いたします」。困難に出遭ったときには、「主よ、私を見捨てないでください」と叫ぶ。そうしている限り、「心の柔和で謙遜な」21神が私たちの祈りを忘れたり、無関心を装ったりなさることはありません。主自らそう断言されたからです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」22と。

自然的な見方を決して失うことなく、出来事の一つひとつの背後に神を見る努力をしましょう。楽しいことがやってきたときも、不快なことに出くわしたときも、また慰めを受けるときや、反対に、愛する人の死による悲しみを前にしたときも。まず何よりも、心の中においでになる神を求め、父なる神と話し合う。これは、無意味でつまらぬことであるどころか、堅実な内的生活、つまり、真の愛の語り合いのあらわれです。精神に悪い影響を与えるはずはありません。キリスト者にとって、祈りとは心臓の鼓動のように自然な活動であるはずです。

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