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今度は、主の御母を眺めましょう。私たちの母でもある聖母は、カルワリオの十字架の傍らで祈っておられる。マリアのこの態度はここに始まったことではありません。いつもこのように祈ってこられました。家事に専念し、義務を果たし、この世の雑事に取り囲まれながら、常に思いを神に向けておられたのです。「完全な神であり、完全な人である」8キリストは、私たちが熱心に絶えず神の愛を見つめることのできるように、非常に優れた御方・恩寵に満ちた御母の力を借りることを望んでおられます。お告げの場面を思い出してください。天使が神から受けた使信、すなわち「マリアは神の母になるだろう」という知らせを伝えに来たとき、聖母は引きこもって祈っておられた。「あなたに挨拶します。恩寵にみちた御方、主はあなたと共においでになります」9。聖ガブリエルがこう挨拶したとき、マリアは主のうちに心を潜めておられたのです。数日後、聖母はその心のよろこびを「マリアの賛歌」に吐露します。マリアの賛歌は、細部にわたってすべてを忠実に記す聖ルカを通して、聖霊が伝えてくださいましたが、それを見ると、聖なる処女マリアが絶えず神との親しさを保っていたことが分かります。聖母は、救い主を待ち望んでいた旧約の義人たちの言葉と歴史を、じっくりと深く黙想されました。幾度も恩知らずな態度を示した民に対する、浪費とさえ言えるほどの神の慈しみと奇跡の数々をみて、聖マリアは心打たれていたのです。絶えず示される神の優しさに思いを巡らすとき、聖母の汚れなきみ心は愛でいっぱいになる。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のしためにも、目を留めてくださったからです」10。この善き母の子供である初代の信者は聖マリアから多くを学びました。私たちも多くを学ぶことができます。学ばなければならないのです。

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