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生命を選ぶ

万物は、神によって、神のために、無から造られたことを知り、感謝せずにはいられません。私たちが招かれている幸せがどのようなものかを感じとることができるからです。被造物の中には、しばしば失うとはいえ、理性の働きをもつ人間と、理性をもたないものとがあります。後者の中には、地の面をかけ巡るもの、地の下に住むもの、また大空を横切るもの、さらに真正面から太陽を見つめることのできるものさえいます。しかし、この驚くほど多様な被造物の中で、天使を除けば、自由を行使することによって創造主に一致できるのは人間だけです。生きとし生けるものの創造主に対して、創造主にふさわしい栄光を帰することができるのも、またそれを否むことができるのも人間だけです。

 このような両極端の可能性をもっているからこそ、人間の自由には明暗両面があると言われます。深い愛である主は、私たちを招いておられる。善いものを選べとおっしゃるのです。「見よ、今日、わたしは生命と幸福、死と不幸を指し示した。もし、今日、わたしの命じる主の掟に従って、神なる主を愛し、その道をたどり、その掟と定めと法を守り行えば、おまえは生きるだろう。生命を選びとれ、生きるために」5。

 <生命>を選ぶ固い決心がありますか。聖性に向かえと励ます愛すべき神の声を聞くとき、進んで「はい」と答えているでしょうか。よく考えてみてください。私も良心の糾明をしています。もう一度イエスに目を戻して、パレスチナの町や村でお話しになる様子を眺めてみましょう。主は強制をなさいません。「もし完全になりたいなら…」6と、あの金持ちの若者に言われました。金持ちの青年は主の誘いを拒みます。福音書には、「悲しそうに立ち去って行った」7と記されています。そこで、私は何度かあの若者のことを<哀れな鳥>と呼びました。あの若者は、自由を神に捧げるのを拒否したために、飛ぶことができず、喜びを失ってしまったのです。

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