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戦うと言っても、神の子が痛ましい放棄や暗澹とした諦めに圧倒され、喜びを失うようなことはありません。戦いとは愛に酔った人の行動、仕事であれ休息であれ、楽しむときであれ苦しむときであれ、常に愛する者のことを考え、その人のためなら何が起ころうと喜んで対処する態度のことです。重ねて申しますが、神が戦いに敗れることは決してありませんから、神から離れない限り、常に勝利を得ることができます。神の要求を忠実に果たすなら、次のような経験ができます。「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」27。

心戦の兵法によれば、大切なのは、時間であり、適切な手をうつ忍耐と粘り強さです。望徳唱を頻繁に繰り返してください。気づかぬ程度にまで神が手加減してくださればありがたいのだが、内的生活には失敗もあれば好不調の波もある。種々の災難から免れている人などいません。ところで、全能で慈しみ深い主は、困難に打ち勝つために有効な手段をお与えになりました。すでにお話ししたように、必要なら何度でも、瞬間毎にも、やり直す決意さえあれば、手段を用いるだけで充分に打ち勝つことができます。

小心に陥らないよう注意して、毎週、必要なときはいつでも、悔い改めの聖なる秘跡、神のゆるしの秘跡にあずかってください。恩寵を身にまとっているなら、歩みを止めることなく山々の間を行き28、キリスト者の義務という坂を上って行くのです。与えられた手段を進んで活用し、主に希望の徳を増してくださるようお願いするなら、神の子であることを知る者の喜びに満ちて、人々に喜びを<感染>させることができるでしょう。「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」29。いうわけで、楽天的になるほかありません。希望の力に満たされると、憎しみを播く人たちがばら撒いた汚れを消し去るために休みなく戦います。すると、世界の歓喜を再発見できる。世界は神の手から生まれた汚れなく美しいものですから、痛悔の心をもつことができれば、世界に元々の美しさを取り戻して神にお返しすることができるでしょう。

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