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新約聖書の登場人物と頻繁に付き合ってください。聖書にあらわれる感動的な場面の数々を黙想しましょう。主が神としての権威と人間味溢れた仕草をお示しになる場面、あるいは、人間的であると共に神的な言葉遣いでお話しになるあの荘厳な赦しの物語、子供たちへの疲れを知らぬ愛の話など。あたかも天国を地上に引き降ろしたようなそれらの場面は、今も福音書のなかで時間を超えて新鮮さを保っています。神の保護を感じて、手で触れることができるほどです。躓きをものともせずに前進するとき、また、転ぶたびに起き上がってはやり直し、神に希望を託しつつ内的生活を続けるならば、神のご保護を感じとれないはずはありません。

内外の障害を克服すべく熱心に戦う意欲をもたなければ、賞を獲得することはできません。「『競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができない』21。また、相手がいなければ、真の戦いにはならない。それゆえ、敵がいないなら、勝利の冠も得られない。敗者のいないところに、勝利者がいるはずがないからである」22。

困難があっても意気消沈することなく、かえってそれを活用し、キリスト者として成長するための刺激に変えなければなりません。戦えばこそ聖化は実現し、使徒職は一層の効果を上げるからです。まず、ゲッセマニの園で、続いて、嘲りの的となり、孤独のうちに十字架にかかったイエス・キリスト、そのキリストは受難の巨大な重みを感じながらも、御父のみ旨を受け入れ、愛されました。このようなイエス・キリストを黙想するにつけ、私たちはキリストに倣い、キリストのよい弟子になるために、主の勧めを心から受け入れる必要のあることがよく分かってきます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」23。そこで、私は好んでイエスにお願いします、「主よ、一日たりとも十字架のない日がありませんように」。こうして、神の恩寵を受けて性格は強められ、惨めな点が多いにもかかわらず、神の支えにまでなることができるのです。

よく考えてごらんなさい。壁にくぎを打ちつけても、手応えがなければ何も吊すことができません。神の助けにすがって犠牲を捧げ、自らを鍛えなければ、神に役立つよい道具になることはできないのです。神の愛のために喜んで艱難辛苦を活用する決心さえすれば、困難や不快なこと、煩わしく辛いことなどを問題にせずに、使徒聖ヤコブ、聖ヨハネと同じように、「できます」24と叫ぶこともできるでしょう。

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