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神は常に赦しをお与えになる

「神に従う人は七度倒れ(る)」19と聖書は警告している。この言葉を読むたびに、強い愛と苦痛を感じ、心は激しく震えます。尽きることのない慈しみや優しさ、寛容について語るため、主は再び私たちに会いに来てくださったからです。主は私たちの惨めさをお望みにはならないが、私たちの惨めな状態についてはご存じです。そして、私たちを聖人にするためにその弱さを利用なさいます。

 愛の震えと申しました。誠実に自らの生活を省みるとき、私は自分が、何者でもなく、何の値打ちもなく、何も持たず、何もできない、いやそれ以下、つまり無そのものであることが分かる。しかし、神はすべてであります。また、神は私の神、私は神のもの。私をお見捨てにはならないどころか、私のためにご自分を死にさえ渡されたのです。これ以上の愛を考えることができるでしょうか。

苦痛の震えとも申しました。自分の行いを振り返ると、山のように積もった怠りを前に唖然となってしまう。朝起きてからの二、三時間を糾明するだけでも、忠実と愛に欠けたことがたくさん見つかる。自分の行いを見ると本当に情けなくなるが、だからといって平和を失うことはない。神のみ前に平伏して、自分の状態を包み隠さずお見せします。すると、すぐに神が近くにおられることを確信し、ゆっくりと心の中で繰り返してくださる神の声が聞こえてきます。「あなたはわたしのもの」20。お前がどのような者かは知っていたし、今も知っている。前進しなさい、と。

これ以外の道はありません。絶え間なく主の現存を保つなら、神は常に呼びかけ、愛を示し続けてくださっていることが分かり、信頼はいや増すことでしょう。神はうんざりして愛せなくなることがない。希望の徳があれば、神の助けがないと、ほんの小さな義務を果たすことさえできないことが分かる。神と一緒であれば、恩寵の力によって傷はすぐに癒される。敵の攻撃に反撃を加えるために神の力を身にまとえるでしょう。簡単に言うなら、自分が泥でできていることを自覚することが、キリスト・イエスヘの希望を特に強めるのに役立つということなのです。

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