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すべてが可能

内的戦いを続けない人には、キリストを知り、キリストを愛し、キリストとひとつになりたい、などと言って欲しくない。キリストに従い、神の子として振舞うという正道を歩むなら、必ず聖なる十字架に突き当たる。ところで、この十字架こそ、主との一致を望む者にとって希望の基礎であることをよく考えなければなりません。

 このような生き方が容易でないことを、前もって断っておきます。主がお示しになる生き方をしようとすれば努力が要求されるということです。聖パウロが、イエスのみ旨を果たすに当たって遭遇した事件と苦しみを列記していますから、それを読み上げてみましょう。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭打ちを受けたことが五度。ローマ兵から鞭打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、外海で一昼夜漂流したこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、偽兄弟からの難に遭い、苦労に苦労を重ね、度々眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。これに加えて色々なことがあったうえに、日々わたしに降りかかる心配事、あらゆる地方の教会に対する気苦労があります」14。

 主との話し合いの間に現実を直視したいものです。新説を打ち出したり、大げさな自己放棄や英雄的行為を夢みたりしても、そのような機会は訪れませんから、無駄だと思います。大切なのは、浪費しがちな時間を活用すること。時間はキリスト教的な見方から言えば、後の世で与えられる栄光の「前金」であって、純金以上に高価なものです。

 日常生活を営むにあたり、サウロの一生に起こったほど、数多くの恐ろしい障害に出遭うことはまずないでしょう。せいぜい卑しい利己心や繰り返し襲ってくる情欲、無用の高慢心、無数の失敗や弱さなどに行き当たる程度でしょう。しかし、がっかりすることはありません。聖パウロに心を合わせて主に申し上げましょう、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです」15。

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