210

私たちが造られたのは、この世に最終的な神の国を建てるためではありません9。「この世は、苦しみのない住居であるもう一つの世界への道である」10からです。だからと言って、私たち神の子がこの世の諸活動に無関心でいるわけにはゆきません。神は諸活動の直中に私たちをお置きになりましたが、それは、この世の諸活動を聖化し、その中に聖なる信仰を浸透させるためです。信仰のみが、真実の平和と喜びを、人々の心の中やその他色々な環境にもたらすことができます。これは一九二八年以来絶えず説き続けてきた考えです。社会のキリスト教化を急がなければなりません。社会のあらゆる階層に超自然的感覚を植えつけ、一人ひとりが互いに日々の義務、仕事、職務を、恩寵のレベルにまで高めなければならないのです。こうして初めて、人々の職業はすべて新たな希望に照らされ、時間を超えて、衰えを知らぬものとなるでしょう。

 洗礼を受けた私たちは、傷ついた心を癒して鎮め、そして力づける、キリストの言葉の運び手となりました。主が私たちの中で自由にお働きになることができるよう、常に戦う心構えを示すべきです。たとえ、無能で弱い自分を思い知り、惨めさと弱さが肩に重くのしかかるのを感じても、神の助けと神ご自身に希望を託しております、繰り返さなければなりません。必要なら、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」11アブラハムのように。これができれば、熱意を新たにして働き、そして憎しみや心配事、無知や無理解、悲観的見方をうち捨てて泰然自若として生きようと、人々に教えることができる。神に不可能はないからです。

この点を別の言語で