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キリストの舟の中で

主がなさったように、私も好んで舟と網について話します。そうするのは、この福音書の一節から具体的でしっかりとした決心を引き出すためです。聖ルカが語っています。数人の漁師がゲネサレト湖畔で網を洗い繕っている。岸辺につながれている舟に近づき、そのうちの一曳、シモンの舟に乗るイエス。主はごく自然に一人ひとりの舟に乗ってこられる。これは人々がしばしば不平を鳴らすもととなるのですが、主は私たちの生活を<複雑>にするためにおいでになる。主は人生という路上で、皆さんや私と往き交い、私たちの人生を<複雑>になさるのです。ただし、愛を込めて、私たちの自由を尊重しつつそうなさいます。

 ペトロの舟から説教なさった後、漁師たちに仰せになります。「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」25。キリストの言葉を信じた弟子たちは、キリストの言葉に従い、あの大漁を得ます。ヤコブやヨハネと同じく驚きのさめやらないペトロを見つめて、主は言われます。「『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる』。そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」26。

 あなたの舟、すなわちあなたの才能、理想、富というものは、イエス・キリストの意に委ねなかったり、主が自由にお入りになることを認めなかったり、あるいは、それらを偶像視したりすれば、何の値打ちもなくしてしまう。水先案内を断り、一人で舟を出すなら、それは超自然的に見て難船への道を一直線に進むことになります。主の助けと指導を認め、またそれを求めてはじめて、人生の嵐や逆風を無事に切り抜けることができるのです。神のみ手にすべてを委ねてください。あなたの考え、想像上の冒険、気高い人間的な理想、清い愛が、キリストの聖心を通って清められますように。さもなければ、遅かれ早かれ、利己主義にぶつかって沈没してしまうことでしょう。

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