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信仰とは、人に説き教えるものではなく、実行すべき徳なのです。きっと、何度も何度も自らの力不足を痛感することでしょう。そのようなときには、福音書に教えを求めなければなりません。てんかんの子をもつあの父親のように振舞うのです。彼は子供の救いのことで頭がいっぱいになり必死でした。キリストが癒してくださることを期待していました。けれども、あまりにも都合のいい話ですから簡単には信じられません。いつも信仰を要求されるイエスは、その父親の困惑を見抜いて仰せになります。「信じる者には何でもできる」37。すべてが可能になる、全能にもなれよう、ただし、信仰がなければならないと。父親は己の信仰が揺らぐのを感じとり、信頼が不足しているから子供は癒してもらえないのではないかと恐れます。そして、その目から涙が。涙が出ても恥じることはありません。涙は、神への愛のあらわれ、痛悔の心から出る、祈りと謙遜の結果です。「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」38。この祈りのひとときを終えるに当たって、私たちもこの父親と同じことを主に申し上げたいと思います。「主よ、信じます」。信仰を鍛えて、あなたに付き従う決意を固めます。一生の間、何度も何度も、あなたの慈悲を願ってきました。しかし、同じくらい何度も何度も、信じ得ぬこともありました。あなたが、目を見張るほど素晴らしいわざを私の中で数多くなさるにもかかわらず、そんなことはできないのではなかろうかと疑ったことがあったのです。主よ、信じます。しかし、さらに深く信じることのできるようお助けください。

 同じことを、神の御母にして我らの母、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた幸いなる」39信仰の師、聖マリアにもお願いしましょう。

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