202

<イエスはいちじくの木に近づかれる>。人々の救いに飢え渇くイエスは、あなたに、そして私に近寄って来られます。主は十字架上で、「渇く」30と叫ばれました。私たちと私たちの愛に飢えておられます。不死と天の栄光につながる道である十字架を通って神のもと導いてあげるべき人々の霊魂と私たちの霊魂に、飢えと渇きを覚えておいでなのです。

 いちじくの木のところへ行かれたが、「葉のほかは何もなかった」31。悲しい場面です。私たちもこのいちじくと同じなのではないでしょうか。残念ながら、信仰は弱く、躍動する謙遜もない。信仰は犠牲や行いにも現れない。なぜでしょう。見た目だけの役立たずの信者なのではないでしょうか。恐ろしいことですが、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」とイエスがお命じになると、「いちじくの木はたちまち枯れてしまった」32。この聖福音書の言葉を耳にすると悲しさに襲われます。しかし同時に、信仰を燃え上がらせ、その信仰と一致した生活を営むことによって、常に<利益>を主に献上しようという勇気も湧き上がってきます。

 自らを歎くようなことのないようにしたいものです。主が頼りになさるのは大人が建てる建物ではありません。主の最大のお望みは子供の遊びです。心を、そして愛を、要求しておられます。命ある限り思い切り働かねばなりません。ところで、日常の仕事は聖化されるべきものですから、<よく>働くことが大切です。神のために働いていることを決して忘れてはなりません。高慢心に負けて自らのためにのみ働くなら、生い茂るのは葉だけになります。神も、そして人々も、葉しかつけない木からは、わずかの甘美も得ることができないでしょう。

この点を別の言語で