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日常生活と観想

再び福音書を繙いてみましょう。今度は聖マタイの第二十一章です。「都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られた」25。空腹を覚えるあなた、渇きを覚えてシカルの井戸の傍らに立つあなたを見ると、喜びがこみあげてきます26。完全な神であると同時に骨肉を備えた完全な人間27であるあなたを眺めることができるからです。また、理解されていること、愛されていることを私が決して疑わないように、キリストは「自分を無にして、僕の身分に(って)」28くださったことがよく理解できるからです。

 <空腹を覚えられた>。仕事や勉強や使徒職に疲れ、地平線が見えなくなって希望を失うとき、そのような時にはキリストに視線を向けます。優しいイエス、疲れ切ったイエス、飢えと渇きを覚えるキリストに目をやるのです。何という悟らせ方、何という愛させ方でしょう。あなたは、罪を除いてすべての点で私たちと同じ人間になってくださいました。あなたと一緒であれば、悪への傾きにも、罪にも、打ち勝つことができることをはっきりとお教えになります。疲れも、飢え、渇きも、涙も、別に大したことではありません。キリストも、疲れを経験し、飢えを覚え、渇きに苦しみ、涙を流しました。大切なのは、天におられる御父のみ旨29を果たすために戦うことです。戦いと言っても、主が常に傍らで付き添ってくださいますから、甘美な戦いと言えましょう。

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