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「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた」。そして、近くにいた何人かの善良な人々が盲人に伝えます。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」14。これがキリスト教の召し出しではないでしょうか。ただし、召し出しとは、神が一度だけお呼びになることではありません。神は常に呼びかけておいでになります。立ちなさい、怠惰を捨てなさい、つまらない利己主義や安楽、さほど大切とは言えぬあなたの心配ごとなど忘れてしまいなさい。不恰好に地に這いつくばった、役立たずな状態から早く抜け出しなさい。高さと重さと量、それに超自然の見方を取り戻しなさい、と。

 その男はすぐに、「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た」15。上着を脱ぎ捨てて!戦場に足を踏み入れたことがあるでしょうか。もうずいぶん昔のことですが、戦いが終わったばかりの戦場に立ったことがあります。そこには毛布や水筒、それに愛する人たちの手紙や写真の詰った背のうが散乱していました。それらはいずれも敗残兵の持ち物ではなく、勝利を得た兵士たちのものでした。突撃に入り、敵陣を突破するとき、邪魔になるので、キリストに付き従ったあのバルティマイのように、兵士たちはすべてを投げ捨てて敵に立ち向かっていったのです。

 キリストのもとへ行くには犠牲を払わねばならない。このことを忘れないでください。毛布も水筒も背のうも、邪魔になるものはすべて捨てなければなりません。神に光栄を帰するための戦いにおいて、また、キリストの王国を広めるための平和と愛の戦いにおいて、私たちも同じことをしなければならないのです。教会と教皇と人々に仕えるには、足手まといになるものをすべて放棄する必要があります。たとえそれが夜の寒さを耐え忍ぶための毛布や愛する家族の思い出、元気をつけるための水であっても。以上が、信仰の教えであり、愛の教訓であります。

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