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バルティマイの信仰

今度は、もう一人の盲人が癒される場面の出てくる、聖マルコによる福音書を開いてみましょう。「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた」10。人々の騒ぎを耳にした盲人は尋ねます。「何が起こったのでしょうか」。人々が、「ナザレのイエスだ」と答えると、キリストヘの信仰に燃えるバルティマイの口からあの叫びがほとばしりでました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」11。

 あなたも自分のために同じ叫びを上げたいとは思いませんか。短い人生という道の傍らに立ち尽くしているあなた、聖人になる決意を固めるため一層多くの恩寵を必要とするあなた、光に欠けるあなた自身に、叫びたくはないでしょうか。矢も盾もたまらず、「ダビデの子イエス、私に憐れみを」と、大声を上げたくはならないでしょうか。何度も何度も繰り返す射祷として美しいこの言葉を。

 奇跡が起こる前の様子をじっくり黙想しましょう。イエスの慈悲深い聖心に比べて私たちの心がいかに哀れであるかを、しっかりと心に刻みつけておきたいからです。そうすれば、いつでも役に立つことでしょう。特に、誘惑や試みのとき、また、日常の小事あるいは英雄的な大事を果たす努力を続けるとき、必ず強い支えになるはずです。

「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」12。イエスがすぐ傍らをお通りになっているのではないかと感じるあなたにも、人々は沈黙させようとして叫び立てます。あなたの鼓動は激しく打ち、遂に大声を上げる、心の奥底で逆巻く不安にいたたまれなくなって。ところが、友人、習慣、気楽な生き方、環境などすべてが一団となってあなたに忠告します。「黙れ。大声を張り上げるな」、「なぜイエスを煩わせるのか。呼ぶ必要などないではないか」と。

 哀れなバルティマイは人々の言うことに耳を貸さず、さらに力をふりしぼって叫びたてます。「ダビデの子、どうかわたしにご慈悲を」。主は初めから彼の声を聴いておいでになりましたが、素知らぬふりをして盲人が祈り続けるままにしておかれました。あなたの場合も同じでしょう。私たちが最初に祈りを始めたときから、イエスはちゃんとご存じです。しかし、お待ちになります。私たちに主が必要であることを確信させるために。エリコの道端で叫び声を上げるあの盲人のように、私たちが執拗に願い続けることをお望みなのです。「バルティマイを見倣いましょう。たとえ神が願いごとをすぐに聞き入れてくださらなくても、たとえ大勢が祈りを止めさせようと妨害しても、倦まず弛まず願い続けねばなりません」13。

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