184

愛と貞潔

以前にもしばしばお話ししましたが、私の場合、主との親交を温めるために、愛をテーマにしたポピュラー・ソングが役に立ちます。こんなことを知られても恥ずかしいとは思いません。皆さんのうちの幾人かと私をお選びになった主は、すべてを捧げるようにと望んでおられます。私たちは愛の歌を超自然のレベルに高めなければなりません。旧約の雅歌は、聖霊がそのようになさったものであり、あらゆる時代の偉大な神秘家たちも同様にしてきました。

 聖テレジアの次の詩句を読み直してみましょう。「私の憩いをお望みなら、愛のために憩います。私の働きをお命じになるのなら、働きつつ死にましょう。おっしゃってください。いつ、どこで、どのようにすればよいのでしょうか。お教えください。甘美な愛よ、私がどうすることをお望みかを」21。十字架の聖ヨハネの歌はどうでしょう。「一人、愛に悩む羊飼い。喜びも満足も忘れて、思いはあの女牧者のもとに。胸は愛に焦がれて」22。私は人間同士の愛を、それが清い愛である限り、言葉で表現できないほど尊び、そして、敬いたいと思っています。両親の貴く清い愛を尊ばない人はいないでしょう。私たちが神と交わることができるのも、実は、大部分、親のおかげなのです。私は両親の愛を双手で祝福します。どうして「双手で」なのかと尋ねられれば、「手は二本しかないので」と答えましょう。

 夫婦の愛は賛美されますように。ところで、主は夫婦愛に勝る愛を私にお求めになりました。カトリック神学が認めるように、天の王国を愛するがためにイエスだけを愛し、イエスを愛するがゆえにすべての人々のために自らを捧げるという愛は、確かに「この神秘は偉大です」(偉大な秘跡)23と言われている結婚、つまり夫婦愛よりも、より一層貴い愛なのです。

 人は自分の置かれた場所で、独身者であろうと既婚者であろうと、あるいは寡婦であろうと司祭であろうと、神から賜った召し出しに応じて真剣に貞潔を守る努力をしなければなりません。貞潔とは万人が実行すべき徳であって、戦いと細やかさ、優雅さと力強さがなければ実行できない徳です。言い換えれば、これほどの細やかさを理解できるのは、十字架上のイエスヘの愛に溢れ、主のお傍にいるときのみなのです。誘惑が待ち伏せして攻撃をしかけてきても、心配するには及びません。感じることと同意することとは異なります。その誘惑も、神のお助けがあれば容易に退けることができます。絶対に許してはならないこと、それは、誘惑と話し始めることです。

この点を別の言語で