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キリストの模範

主イエス・キリストは、この世での生活中、絶えず無数の悪口にさらされました。人々はありとあらゆる手段を用いて主に害を加えようとしたのです。覚えていますか。ある時は、主を革命家に仕立て、ある時は、悪魔につかれている5と言う、またある時は、主の無限の愛の表明を悪く解釈し、罪人の友だと非難する6。

 後になると、償いと節制の模範である主を、金持の家に招かれてばかりいると言って罵ります7。それだけでなく、あたかも労働者の子であることは悪いことであるかのように、「大工の子」8と軽蔑の念を込めて呼びました。主は、大食漢、大酒飲み…と呼ばれることもお許しになり、何を言われても言わせておかれましたが、ただ一つだけ例外がありました。貞潔については勝手なことを言わせなかったのです。この点に関してだけは、人々の口を封じました。なぜでしょうか。一点の曇りもない貞潔と清純と光、さらに、全世界を焼き尽くし浄化することのできる愛の模範を私たちが保つようお望みだったからです。

 私は好んで主の行いを黙想しながら、聖なる純潔について話します。この徳について主は非常に細かなところまで模範を示してくださいました。聖ヨハネの話に耳を傾けましょう。イエスが、「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」9ときのことです。

 心の目を開いて、あの場面をしっかりと眺めましょう。「完全な神、完全な人である」10イエスは、旅と使徒職でお疲れでした。きっと皆さんにも経験がおありのように、もうこれ以上、何もできないと言えるほど疲れきっておられました。疲れきった主を眺めるとそれだけで心打たれる思いがします。そのうえ、イエスはたまらなく空腹でした。弟子たちは食べ物を探しに隣の町へ行っています。さらに、主の喉は渇き切っていました。

 しかも、人々の救いを思う渇きは、体の疲労にもまして主をさいなみました。ですから、罪深いサマリア女が現れると、迷える羊を救おうとする司祭としてのキリストの聖心が、ただちに反応し始め、体の疲労、空腹、喉の渇きも忘れてしまったのです。

 主が大きな愛に動かされて使徒職に打ちこんでおられたとき、町から戻ってきた使徒たちは、「イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた」11。女性と接するときには充分、慎重な態度をとるよう教えられていたからです。聖なる純潔という得も言われぬ徳を本当に大切になさいました。私たちがより一層強くなり、より多くの実を結び、より一層効果的に神のために働き、偉大なことをすべて実現することができるようになるのは、この純潔の徳のおかげなのです。

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