Josemaría Escrivá Obras
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矯正すべきときや、悲しみを与えるような決定を下さなければならないときは、最初から最後まで苦しむのは私自身です。これは知っておいて欲しい。ただし、私は特に感傷的な人間というわけではありません。動物は涙を流せないが、人間すなわち神の子は泣けると思うと心が慰められます。義務を忠実に果たそうと努めるなら、時には苦しいこともあるのです。他人に嫌な思いをさせたくない一心から、何としても苦しみを避けようと努めるのは、楽であるには違いないが道を踏み外すことになります。この種の遠慮には、往々にして、自分は苦しみたくないという逃げの態度が潜んでいるからです。他人に真剣な忠告を与えて気分のいい人はいません。しかし、言うべきことを、言うべきときに言わなかった人が、地獄には大勢いることを忘れないでください。

 ここにも何人かの医者がおられるが、再び医学を例にあげる厚かましさをお許しください。間違ったことを言ってしまうかもしれませんが、内的生活の例としてはぴったりだと思うのです。傷を治すに当たって、医者はまず患部を洗い、傷の周辺も同様に洗います。こうすれば傷口が痛むことは充分承知しているが、そうしておかないと後でもっとひどい痛みに襲われることもよく知っているからです。続いて、消毒薬を塗ります。傷はうずき(私の故郷では「さす」と言いますが)苦痛を与える。しかし、黴菌が入らないようにするにはこうするほか仕方ないのです。

 身体の健康のために、ほんの少し擦り剥いただけでもこのような治療をしなければならないとすれば、人間の中枢神経である霊魂の健康という大事を守るために、洗浄や放血、払拭、消毒を施さず、また苦痛を忍ばなくてもよいと言えるでしょうか。賢明な人でありたいなら、干渉すべきときには干渉しなければならず、義務から逃げ出すわけにはゆきません。避けて通ろうとするのは思慮の欠如をあらわすだけでなく、時には、正義と剛毅に反する行為となってしまいます。

 キリスト者が、神と人に対して正しい生き方をしようと望むなら、あらゆる徳を、少なくとも潜在的にもっている必要があります。「でも神父さま、私には色々と弱いところがあるのですが…」とおっしゃるのですか。それならこう答えましょう。たとえ自分が病気、それも慢性の病に苦しんでいるとしても、医者は患者を治すのではありませんか。自分が病気であれば患者の処方箋を書くこともできないのでしょうか。他人を治療するには、自らの病を克服するのと同じように、必要な知識を患者に当てはめればよいのです。

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