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「わたしたちの力の神に向かって喜び歌い、(…)神に向かって喜びの叫びをあげよ」20。主を称えよ、我らの唯一の助け手、主において喜び踊れ。イエスよ、この事実を知らない人は愛についても、罪についても、惨めさについても知らない人でしょう。私は哀れな人間ですから、罪についても愛や惨めさについても知っています。神の心に近づくとはどういうことなのか分かりますか。人間が神に相対して心を開き、不平を述べたてるとはどんなことか分かるでしょうか。たとえば、この世でもっと長生きし、主に仕え、主を愛することのできるはずの人を、主がご自分のもとへお召しになったとき、私は不平をならします。なぜそのようなことをなさるのか、私には理解できないからです。しかし、これはあくまで神を信頼する人間の、心から出る悲しい呻き声のようなものです。神のみ腕から離れるとすぐ倒れてしまうことをよく承知していますから、すぐに神のみ旨をお受けし、そして、言い添えます。「神のいとも正しく、いとも愛すべきみ旨は、万事を越えて行われ、全うされ、賛美され、永遠に称えられんことを。アーメン。アーメン」。

 これが聖書の教える私たちの生き方、使徒職の効果を上げるための聖なる<悪知恵>です。これこそ、私たち神の子の愛と平安の源、落ち着きと愛を人々に伝えるための道なのです。こうして、私たちは仕事を聖化し、仕事の中に隠された幸せを求めつつ、日々の生活を神の愛のうちに終えることができる。子供のような聖なる<無恥>を身につけ、倒れると恐れをなして御父のもとへ戻らないような偽善、おとなの<恥>を捨てて、道を歩み続けます。

 本日ミサ聖祭でとりあげた福音書に出てくる主の挨拶を、この祈りの結びとします。「あなたたちに平和」21。私たちを御父のもとへと付き添い、導いてくださる主を見て、「弟子たちは喜んだ」22。

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