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悲しみに沈んで次のように言った人がいました。「神父さま、一体どうなってしまったのか分からないのですが、疲れて心は冷たくなり、以前には実行が容易でしっかりしていた信心も、この頃は何か喜劇を演じているような気になるだけです」。このような状態にいる人々、そして皆さん方にもお答えしたい。喜劇だと言うのですか。素晴らしいことではありませんか。子供に対する父親のように、神が私たちと戯れておいでになるのです。

「わたしは地上で人の子と遊んだ」17と聖書に書いてあります。主は地上のあらゆるところで戯れておいでになるのであって、私たちを見放されたわけではありません。聖書には続いて、「わたしは人の子らと共に楽しむ」18と記してあります。神が私たちの遊び相手になってくださる。心が冷え切り、無気力に陥って、まるで喜劇を演じているように思われるとき、気も腐ってやる気がなく、義務の遂行が辛くなったとき、あるいはまた、目指す霊的面での目標が達成しがたく思えるとき、そのようなときには、神が私たちと戯れておいでになると考え、喜劇を颯爽と演じきろうではありませんか。

 主が、時として私に、たくさんの恩寵を与えてくださったことを隠すつもりはありません。しかし、たいていの場合は、自分の傾きにあらがって生きなければなりませんでした。気に入っているから計画を実行するというよりも、果たさなければならないから神への愛ゆえに実行するのです。「しかし神父さま、神のみ前で喜劇を演じるなどということができるのでしょうか」。「そんなことは偽善ではないのですか」。心配するには及びません。神という観客の前で人間喜劇を演じるときが訪れたのです。忍んでやり遂げなさい。御父と御子と聖霊が見てくださっています。たとえ辛くとも、すべてを神への愛のため、ただ神をお喜ばせするためにやり遂げるのです。

 神の旅芸人になる、素晴らしいことではありませんか。神への愛ゆえ犠牲をものともせず、自己満足を求めることもなく、ただ神をお喜ばせしたい一心で、喜劇を歌い語りするほど美しい話があるでしょうか。主と向かい合って心の思いを吐露しなさい。「やる気は全くないのですが、あなたにお捧げするつもりで果たします」と。そして、たとえ喜劇に過ぎないと思えても、とにかく仕事に没頭してください。幸いな喜劇と言えるのではありませんか。それが偽善でないことは私が保証します。偽善であれば、必ず観客を要求します。偽善者なら、観客のいないところで演技しないでしょう。ところで、繰り返しますが、私たちが演じるとき、観客は、御父と御子と聖霊、聖母マリアと聖ヨセフ、すべての天使と聖人たちです。私たちの内的生活を見てくださるのは、「ひそかにお通りになるキリスト」19なのです。

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