15

信実・誠実な心で霊的指導を受ける

キリスト信者としての道を歩む者に、どのような義務があるかは充分ご存じでしょう。その道を休みなく歩んで行けば、平穏のうちに聖性へと導かれます。また、いくつかの困難に対してのみならず、あらゆる問題に対し、用心を怠らない心をお持ちのことと思います。障害があることは、道のはじめの頃からすでに予想していました。そこで今、私が力説したいのは、皆さんが一人の霊的指導者に、すべての聖なる野心と内的生活にかかわる日々の問題、失敗と成功について、包み隠さずに打ち明け、指導者の助けと導きにすべてを任せるということです。

 霊的指導を受ける時は、できるだけ信実・誠実な態度で臨まねばなりません。何事であっても言わずにすますことのないようにしましょう。恐れや恥ずかしさを捨てて、心を完全に開くのです。もしそうしなければ、この平らで広い道も紆余曲折し、最初なんでもなかったことも大難事になってしまいます。「突然襲いかかって来た一度だけの失敗によって信仰の道を見失うと考えてはならない。信仰を失った人々は、道の最初に誤ったか、長い間、自分の霊魂に気を配らなかったからである。その結果、徐々に徳が衰える反面、悪徳が増し、最後には惨めにも自らを破滅させるに至ったのである。(…)家屋は不時の天災による一撃で倒れるものではない。土台に何らかの不備があったか、その住人が久しく注意を払うのを怠ったかした結果、最初は極めてわずかであった欠陥が、堅固な骨組を徐々に侵してゆき、嵐や大雨がやって来たとき、遂に取り返しのつかない状態まで破壊され、長年の怠慢をさらけだすのである」20。

 例のジプシーの告白の話を覚えていらっしゃいますか。これは単なる話にすぎません。いうのも、私はジプシーをたいへん尊敬していますし、また告白の内容については決して話してはならないからです。かわいそうなその人は心から痛悔していました。「神父さま、私は端綱を一本盗みました」。「大したことではないじゃないか」。「その端綱の後ろにロバが一頭ついてきていました。そして、その後にもう一本の端綱があって、…それにもう一頭のロバがつながれてあり、…とうとう二十頭盗みました」。皆さん、これと全く同じことが私たちにも起こります。最初は端綱を盗み、その後すぐに他の悪にも譲歩する。そうして、私たちを卑しくし恥じ入らせる一連の悪への傾きと惨めさに妥協してしまう。社会生活においても同様のことが起こります。最初に他人を少し軽く見ると、そのうち無関心という最も冷淡な態度のうちに、互いに背を向けて暮らすようになってしまうのです。

この点を別の言語で