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若い頃の思い出が再び蘇ってきました。あの人々の篤い信仰には全く感心させられます。いまなお典礼聖歌は耳に響き、香のかおりを吸いこんでいるような心地がします。大勢の男たちが、自分の弱さを象徴するかのような大きな蝋燭を、幼子のような心で支えている様子が、目に見えるようです。御父のみ顔を仰ぎ見る勇気がないのかもしれません。「神である主を捨てたことがいかに悪く、苦いことであるかを味わい知るがよい」15。この世の事柄に夢中になるあまり、神から離れるようなことには決してなるまいと、固い決心を新たにしたいものです。どう振舞えばよいか具体的に決心し、渇く人が水を求めるように神を求めようではありませんか。自分の無力を知るゆえ、絶えず御父を呼び求めるのです。

 話をもとに戻しましょう。幼子のようになる、神の子らしくなると言っても、実際にどうすればよいかを学ばなければなりません。次いで、それを人々にも伝える義務があります。神の子としてのあり方を身につけると、たとえ欠点はなくならないとしても、「信仰に堅く」16、行うに豊か、そして、歩みはしっかりとしてきます。万一、これ以上ひどい過ちはないと言えるほどの失敗をしても、迷わず立ちあがり、神との父子関係という道に戻ることができる。両腕を広げて待ちかまえている御父のもとに駆け戻ることができるのです。

 父親の腕を忘れた人はいないでしょう。母親の腕のように、優しく細やかではなく、甘えを許してくれなかったかもしれませんが、父親のあの逞しくて強い腕に抱かれると、暖かさと身の安全を感じとることができました。主よ、このような頑丈な腕と力強い手に感謝いたします。優しくも厳しい心に感謝いたします。私の弱さについても感謝したいところでしたが、弱さは望みたくありません。しかし、あなたは弱さを理解し、赦し、見逃してくださいます。

 これこそ、神との交わりにおいて用うるべき知恵であり、神がお望みになる知恵。これこそ数学の知識のようなものです。つまり、私たちは、いくら並べても役に立たない、数字の左側にならぶゼロのようなもの、それにもかかわらず、父である神は役立たずの私たち一人ひとりのあるがままの姿を認めてくださる。哀れな私でさえ、あなたたちのあるがままの姿を愛することができるなら、愛である神が皆さん方一人ひとりにいかほどの愛を注いでくださるか、容易に想像できるのではないでしょうか。ただし、良心をしっかりと育て、その良心に従って生活を律する努力、つまり戦う必要のあることを忘れてはなりません。

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