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聖櫃から私たちをごらんになっているイエスはよくご存じなのですが、今の話題とは関係のないある事情から、私は自分が神の子であることを特に実感できる一生を過ごしてきたと言えます。意向を改め、自らを浄化し、主に仕えるため、また神の愛と私自身の屈辱をもとにして、すべての人々を理解し、そして赦すために、主の聖心のうちに入り込む喜びを味わうことができました。

 それゆえ、今皆さんに重ねてお願いします。いとも簡単に私たちを惑わす、弱さという悪夢から早く目覚めて、自らを改め、神の子としての自覚を強く持ってください。

 東方の地を巡り歩くイエスを模範にするなら、この真理をさらに深く理解できるでしょう。ヨハネの書簡には、「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています」5と書き記してあります。ところで、神の証しとはなんのことでしょうか。「(御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、)考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」6と聖ヨハネは答えています。

 この喜ばしい神との父子関係に、私は絶えず支えを求めてきました。どのような事情があっても、時によって色合いは異なったけれども、いつも神に申し上げたものです。主よ、私をこのような場に置き、あれこれと仕事をお任せになったのはあなたです。あなたを深く信頼いたします。あなたが私の父であることはよく承知しております、と。子供たちが父親に全幅の信頼を寄せる様子を幾度となく目にしてきました。子供のように神のみ手にすべてを委ねるならば、心は活力に溢れ、深くて強い落ち着きのある信仰心を獲得し、その結果、常に正しい意向で働くことができるということを、司祭としての経験から確信できました。

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