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白衣の主日

白衣の主日を迎えると、私の国に昔から伝わる信心深い習慣を思い出します。主日の典礼は、霊的な糧、「混じりない霊的な乳を慕い求めなさい」1と招いています。この日には、復活祭の掟の遵守を助けるため、重病人のみならず、病に伏しているすべての人々に聖体を運んであげる習慣があったのです。

 大きな町では、小教区ごとに聖体行列を行いました。私が大学生の頃は、サラゴサ(スペイン)のコルソという広場のようなところを、大勢の男たちが燃えさかる蝋燭を手に、三つの行列をつくって練り歩いたものです。屈強な男たちは、両腕で抱える枝型の重い蝋燭のような大きな信仰心に燃えて、聖体に付き従うのでした。

 昨夜はなんども目を覚ましましたが、そのたびに射祷として、「新たに生まれたみどり児のように」2と繰り返していました。神の子であることを実感している者にとって、この言葉は実に申し分のない招きであると考えたのです。自分の置かれた環境にあっては、周囲に大きな影響を与えるだけの強さと勇気を持たなければならないとしても、神のみ前では自らを幼子のように考えるべきだからです。

私たちは神の

「新たに生まれたみどり児のように、混じりけのない霊的な乳を望みなさい」3。聖ペトロの言葉は見事というほかはありません。典礼がすぐあとで、「われらの力である神に歓呼の声をあげ」、父にして主にまします「ヤコブの神に呼びなさい」4と加えた理由もなるほどと頷けます。けれども本日は、イエスに対する最大の賛辞を吐露するミサはさておき、真剣な努力を傾けて信仰に生きようとする人々全員のために、私たちのつ確実性、つまり神の子であるという事実について、しばらく黙想したいと思います。

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