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一度、自らの生活の仕方を振り返り、細やかさの不足や、心に感じる次のようなことについて赦しを願ってください。無頓着な言葉遣い、自分のことのみに終始したあのときの思い、不安や悲嘆、馬鹿げた心配のもととなったあの批判、など。信じてください、幸せになれるはずなのです。ご自分が歩まれた幸福への道を、喜びに満ち、幸せに包まれて歩む私たちを、主はお望みです。不幸だと感じるのは、強いて脇道にそれ、自己愛と快楽の小道に入り込んでしまうときだけ、あるいはもっとひどい偽善者の道に入り込んだときだけです。

 キリスト信者は何をするにつけても、真摯、真実、誠実でなければなりません。私たちの言動には、キリストの心があらわれなければならないのです。首尾一貫した生活をすべき人がいるとすれば、キリスト信者をおいてほかに誰がいると言えるでしょうか。自由にして救い24をもたらす賜物25を、実りを与えるために与えられているのは、ほかならぬキリスト信者であるからです。

 どうすれば誠実さを身につけることができるのでしょうか。イエス・キリストは必要な手段をすべて教会にお与えになりました。天の御父と交わる方法や祈り方を教え、霊魂内で働く知られざる偉大な御者・聖霊を遣わしてくださいました。恩寵の目に見えるしるしである秘跡をも残してくださっています。しばしば秘跡にあずかってください。信心を深めてください。毎日の祈りを忘れず、喜ばしい重荷である十字架から離れないようにしましょう。世間が与えることのできない平和と喜びを<振り撒きながら>、地上を旅する善き弟子として主に従うよう招いてくださったのは、ほかでもないイエスです。それゆえ、生に対しても、死に対しても、恐れを抱くことなく歩まなければなりません。キリスト信者にとっては清めの手段であり、兄弟たちに常に真実の愛を示す機会となる苦しみを、決して避けてはなりません。

 時間が来ました。あなたの心を動かすための話も、そろそろ結びにしなければなりません。固い決心を少しだけ立ててください。主はあなたの喜びだけをお望みです。あなたができる限りのことをすれば、たとえ十字架がなくなることはないとしても、たいそう幸福になれるはずです。その十字架は、十字架と言っても今や刑具ではなくて、玉座なのです。キリストはその玉座からすべてをお始めになる。そして、その傍らには私たちの母でもある主の母がいらっしゃいます。聖母マリアは、御子の跡に従うために必要な力を、送ってくださることでしょう。

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