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社会の直中で、日常茶飯事を聖化せよ、自己を聖化せよ、招くとき、主は私たちにどのような道を歩めと要求なさるのか、再び繰り返すことをお許しください。溢れるほどの信仰と素晴らしい良識をもつ聖パウロは教えています。「モーセの律法に、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です」21。

 キリスト信者の生活とは、一連の重い義務を果たす生活のことではない。それゆえ、霊魂をどうしようもないほど緊張させる必要もない。信仰生活とは、手袋が手に馴染むように、それぞれの生活状況に合わせることができるものですから、超自然的見方を決して失わず、大小様々な日常の仕事を、祈りと犠牲の心で実行しさえすればよいのです。神がどれほど私たちを愛しておられるのか、考えてみましょう。ロバに食べ物や休息を与えず、過度の鞭打ちでその力を削ぐようなことをしておきながら、もっと働けとは言えないでしょう。あなたの身体はエルサレム入城のときに主がお乗りになったロバです。その身体で、地上における神の素晴らしい小道を進まなければなりません。神への小道からそれないように体を御し、軽快な足どりで、ロバのように張り切って前進すべきなのです。

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