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目的を見据えて

  以上のようなことをお話ししたのは、行いの動機を注意深く調べて、すべてを神と人類への奉仕に捧げるという、正しい意向で働いてもらいたいからです。主が私たちの傍らをお通りになり、いかに愛情深い眼差しを注いでくださったか、よく考えてください。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画(み旨)恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ(ました)」14。

 意向を清めてください。日々の十字架を喜んで担い、何をするにも神の愛のために果たしなさい。口を酸っぱくしてこの点を繰り返してきたのは、キリスト信者が深く心に刻むべきことだからです。忍耐に限度を設けるのではなく、逆に、意のままにならぬことや肉体的精神的苦痛を愛し、自分と人々の罪の償いのために捧げる。そうすれば、そのような艱難も耐えがたいものではなくなります。

 あなたが担っているのは無意味な十字架ではなく、キリストの聖なる十字架であることが分かるでしょう。しかも主が引き受けてくださる。私たちはキレネのシモンのように協力するのみ。一日の労働のあと、楽しい休息を思いながら農場から帰る途中、シモンは無理矢理徴用されてイエスの十字架を背負わされた15。私たちは自発的に<シモン>になり、痛々しくも、ボロボロになったキリストに近くから同行すべきです。神愛に陶酔した人にとって、それは不運ではなく、かえって、祝福する神の近くにいるという確信を得る機会となる。多くの人々がたびたび、オプス・デイの子供たちの、人を引き込まずにはおかない喜びに感嘆しました。それらについては、いつも同じ説明をしています。ほかに言いようはないのです。生を恐れず、死も恐れない、悲しみに屈せず、日々を犠牲の精神で過ごすために努力する、個人的な惨めさや弱さにもかかわらず、常に自らを放棄する心構えがある。キリスト者の歩むべき道を歩み易く、容易にできさえすればいいと思いつつ。―これが彼らの幸せの秘訣です。

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