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たとえ躓いても、辛い失敗の後に再び立ち上がり、志気を新たにして前進する望みを持つことができるなら、恐れるに足りません。聖人とは、失敗しない人ではなく、謙遜と聖なる頑固さに支えられて、失敗しても必ず立ち上がる人であることを、忘れないで欲しい。箴言が、「義人は七度たおれる」10というくらいですから、哀れな私たちが、自分の惨めさや躓きに驚いたり、意気消沈したりすべきではありません。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」11。こう約束してくださった御者に強さを求めるなら、弛まず前進することができるからです。ありがたいことに、「あなたはわたしの神、わたしの砦」12です。あなたのみが、常に私の砦、私の避難所、私の支えでありますから。

 本気で内的生活に進歩したいのなら、謙遜になりなさい。そして、絶えず、信頼しきって、主キリストの助けと、主の母であり私たちの母でもある聖マリアの助けを求めるのです。この前の過失が与えた傷がどんなに痛もうとも、穏やかな心と新たな心でその十字架を抱きしめ、主に申し上げましょう。「主よ、あなたの助けさえあれば、戦いを続けることができるでしょう。急な坂や、日々の仕事の外見上の単調さ、道中の茨や小石を恐れずに、あなたの招きに忠実に応えたいと思います。あなたは慈しみ深い心で私を助けてくださいますから、やがて、永久に続く喜びと愛、永遠の幸せを見出すことができるでしょう」。

 例の作家は同じ夢の中で第三の道を見つけました。それは狭く、険しく、第二の道と同じくらい辛い坂道です。幾人かの人が、厳粛荘厳な面持ちで、数々の艱難を乗り越えて進んでいる。ところで、その道の果てには、第一の道と同じく恐ろしい崖が待ちうけている。実は、これこそ偽善者の通る道。その人々の意向は正しさを欠き、利己的な熱心さに動かされ、神の業を現世的利己主義と混同してしまっている。「愚か者は賞賛の的になろうと骨の折れる事業を企てる。地上での報いを望みながら、神の掟を守るために熱心に努力はする。徳の実行で人間的利得を望むことは、あたかも値打ちものの貴金属を投げ売りに供するのと同じなのだ。天国を勝ち取ることができるのに、儚い地上の賞賛で満足してしまう。それゆえ、偽善者の希望は蜘蛛の巣のようだと言われる。丹精込めて編み上げても、最後に死という一陣の風に運び去られてしまうのだ」13。

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