13

首尾一貫した生活

洗礼によって「もう一人のキリスト」になるよう召されたカトリック信者が、神の子でありながら、ただ形だけの信心で良心を満足させていることを見るにつけ、心が痛みます。その人々の宗教心は憐れむべきものであって、自分に都合がよいときだけ、時々祈りに赴き、腹を満たすため決まった時間に食事を摂ることには几帳面な注意を払う一方、ミサは定められた日に限ってしまう。しかも、その義務さえ常に果たすわけではない。また、エサウのように「あじ豆スープのために」、つまり自分の地位を守るために、信仰において譲歩したり、信仰の中身を変えたりさえする。そうしてから、厚かましくも立身出世のためにキリスト信者のレッテルをかかげ、人々の躓きとなる。もってのほかです。私たちはこんなレッテルだけでは我慢できません。どこから見ても百パーセントのキリスト信者でなければならないのです。そして、そうなるには、間に合わせの手段ではなく、霊的に適切な糧を探す必要があります。

 がっかりすることがないように、前もって私が繰り返し述べてきたことは、よくご存じのことと思います。内的生活とは毎日何度も始めることにあるということを、皆さんは自らの経験に照らしてよく知っておられ、休みなく戦わなければならないことも悟っておられる。良心の糾明において、たびたび小さな悲しみに襲われることもあるでしょう。時には、愛や献身、犠牲の精神や細やかさが不足していることをまざまざと見せつけられ、それらが途方もなく大きなものに思われたという経験もなさったことでしょう。私にも同じ経験があります。私事に言及するのは恐縮ですが、こうお話ししている間も、主と共に私の霊魂の必要事について思いを巡らしています。心の平和を失うことなく、真実の痛悔をもって、もう一度始めようという決意を強めようではありませんか。

この点を別の言語で