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二十五年以上も昔、善意の婦人グループの管理する、貧しい人たちのための大きな慈善食堂に通っていました。物乞いで生きる人々は、そこで与えられるわずかな食事だけで日々の飢えを凌いでいたのです。ある日、二番目のグループの一人に注意を引かれました。その人は大切そうに懐からアルミ製のスプーンを取り出すと、嬉しそうにじっと眺め、食事が終わると、“これは自分のものだ”と言わんばかりに再びスプーンを愛でるのでした。そして二、三度それをなめまわしてきれいにしたあと、満足げにぼろのひだの中にしまいこみました。それは“その人のもの”でした。不運な生活を強いられていた人々の中で、その哀れな人はお金持ちのつもりだったのでしょう。

 その頃、ある老婦人と知り合いになりましたが、その婦人は貴族の称号をもっていました。ところで、このような称号は神のみ前でなんの価値もありません。私たちは全員、アダムとエバの子であり、弱い存在、徳と欠点をもっています。それに、万一、主に見捨てられると、ひどい罪を犯すことさえできるのです。キリストの贖いが実現した後、人種や言語、肌の色や血筋、富などによる人間の違いはなくなりました。私たちはみな神の子です。お話ししていた婦人は先祖から受け継いだ邸宅に住みながら、慎ましい暮らしをしていました。しかし、家事の手伝いをしてくれる人にはとても気前よくはずみ、残りは貧しい人たちの救済に当てていたのです。彼女自身は言えば、あらゆる欠乏に耐えていました。大勢の人が何としても欲しがるような資産家であったにもかかわらず、個人的には貧しく、犠牲心に富み、すべてのものから離脱した心を持っていました。お分かりでしょうか。この話に、次の主の言葉を加えればすべて明らかになるでしょう。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」26。

 もし、このような心になりたければ、自分自身のことについては慎ましく、他人には気前よくなってください。贅沢や気紛れ、虚栄や安楽のための無駄遣いを避け、今あるもので満足するよう努力することです。聖パウロと共に、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」27と言えるようになりたいものです。このように、離脱して何ものにも縛られない心を持つなら、聖パウロ同様、内的戦いに勝つことができるでしょう。

 大聖グレゴリオは教えています。「信仰の競技場にやってきた人は皆、悪霊と戦う義務がある。悪魔はこの世に何も持っていないので、裸で戦いに挑んでくる。それゆえ、われわれも裸で挑戦を受けねばならない。裸で向かってくる敵に対して服を着て応じるなら、すぐ負かされてしまうからである。地上の物は、この衣服の類でなくて何であろう」28。

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