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自然的な物の見方を保ちながら、人々と全く変わりない生き方をするのは、神であり人であるイエスの模範に倣っているからにほかなりません。主の生涯はどの点からみても、自然であったことを思い出してください。

 三十年もの間、世間の注目を浴びることなく、普通の労働者としてお過ごしになりました。村では大工の息子として知られていたにすぎません。公生活の間も変わり者と思われたり、人の目を引いたりすることなく、周囲の人々と同じように友人に取り囲まれ、人々と同じように振舞っておいででした。ユダは主を指し示すために、「わたしが接吻するのが、その人だ」23と具体的な合図を決めておく必要があったほどです。イエスには奇妙なところは全くありませんでした。周囲の人々と同じ生活の営みを続けた主を見ると、心打たれます。

 洗礼者聖ヨハネは、その特別の使命ゆえにらくだの毛皮をまとい、いなごと野蜜を糧として生きていました。救い主は、縫目なしの上着をまとい、人々と同じように飲食されます。他人の幸せを共によろこび、隣人の悲しみに心を痛め、友人の提供する息抜きも快く受け入れておられました。長年、自らの手を使って、大工のヨセフと共に生活の糧を得ていましたが、そのことを誰にも隠しませんでした。社会に生きる私たちも、主のように日々の生活を営まなければなりません。要約すると、清潔な服装と清い体、そして何よりも清い心で、日々を過ごさなければならないのです。

 主は、現世的善から離脱すべきことについて、素晴らしい教えをお説きになりましたが、同時に、ものを浪費してはならないことをも強調なさいました。五千人以上の人々を満足させたあのパンの奇跡の後、「『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、お残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」24。この場面を注意深く黙想すれば、要は、けちになるのではなく、神のお与えになった才能や物質的手段のよい管理者であれ、お教えになっていることが理解できるでしょう。

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