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再び、私の経験を少しばかりお話ししましょう。神のみ前にいることを考えながら話しています。私は人の模範になるような人間ではなく、ぼろきれのように哀れな道具にすぎません。このような私をお使いになった主は、椅子の足ででも完璧な字をお書きになれることを証明されました。ですから、私が自分のことを話しても、私に何らかの功徳があるなどとは毛頭考えていません。主が私を導いてくださった道を歩むことを他人に強要するつもりもありません。生涯を捧げたオプス・デイを支障なく成就させるために、神はすこぶる助けになる手立てをくださいましたが、全く同じものが皆さん方にも役立つとは限らないからです。

 神の摂理に信頼し、その全能の腕に万事をお任せするなら、自らの義務を忠実に果たし、主と教会と全人類に奉仕する手段を常に手に入れるだけでなく、とうていこの世の善の与え得ない喜びと平安に浸ることができます17。これについては手で触れるように自分の目で確かめてきましたから、皆さんに保証できます。

 一九二八年のオプス・デイ創立以来、人間的手段は何一つ持たないばかりか、個人的には一銭たりとも管理したことはありません。物質界に生きる人間は天使ではありませんから、仕事を効果的にするためにどうしても手段が必要となる。手段と言えば経済的な問題にかかわってきますが、私はこのような問題にも直接介入することはありませんでした。

 使徒的事業を維持するためには、多くの方々の寛大な協力が必要でしたし、これからずっとその必要が続くことは確かです。この種の事業は決して利益を生むものではない上に、協力者やメンバーの仕事量がいくら増えても、主への愛がなくならない限り、使徒職の範囲はさらに広がり、それに伴う必要もますます多くなるはずだからです。一度ならず霊的子供たちの笑いを誘う結果になりましたが、神の恩寵に忠実であるよう励まし駆り立てる一方、もっと多くの恩寵と現金、それも手の切れるような札束を厚かましくも主にお願いするよう励ましたものです。

 創立当初は、最低限度の必需品にも事欠いていました。しかし、神の熱愛に魅せられて周りに集まった労働者や職人や学生たちは、当時の困窮を意に介しませんでした。オプス・デイにおいては、天の助けを支えとして一所懸命に働き、数多くの犠牲と祈りを捧げますが、あまり表にあらわれないよう努めてきました。その頃を思い浮かべるたびに心は感謝の念でいっぱいになります。何事であれ必ず実現できるという強い確信がありました。また、神の国とその義を追い求めるなら、その他のものは加えて与えられる18ことを確信していたからです。使徒的な事業を、資金や手立てがないという理由で放棄することはありませんでした。主は適当なときに<通常の摂理>を通して、色々な形で必要を満たしてくださいました。主はいつも寛大に報いをお与えになることを示されたのです。

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