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受肉された神の愛をほんのわずか目にするだけで、神の寛大さに心打たれます。数多くの、卑しくて利己的な振舞いに対して痛悔の心をもてと勧め、優しく導いてくださるのです。自らを低めることさえ厭わないキリストは、私たちの惨めさを取り除き、神の子、キリストの兄弟としての尊厳まで与えてくださいました。それにもかかわらず、人間は愚かにもたびたび、与えられた数々の賜物や才能を誇り、時には、他人を支配する手段にしてしまう。比較的うまくやり遂げた仕事の功績を、まるで自力によるかのように考えてしまうのです。「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」7。

 神が自らを空しくして己を捧げてくださったことを考えると、(私たちがそれぞれ自分の状態を黙想する手掛かりとして話すのですが)自負心や自惚れという罪の恐ろしさが歴然としてきます。この恐ろしい罪に負けると、イエス・キリストの模範とは正反対の状態に陥ってしまいます。ゆっくりと考えてみてください。キリストは神でありながら自らを卑しい者とされました。ところが、自己愛で膨れあがった人間は、汚れた泥でできていることを認めようともしないで、是が非でも高められることを望むのです。

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