108

謙遜の徳を、あたかも人間的な意気地なさであり、永遠に続く悲しみであるかのように話す人を、決して信用してはなりません。かすがいで繕われた脆い器であると感じることは、絶えることのない喜びの源であるはずです。神のみ前では本当に幼い子供に過ぎないことを認めることだからです。哀れで弱い自分を自覚すると同時に、神の子であることを知っている人の喜び以上に大きな喜びがあるでしょうか。なぜ、人間は悲しむのでしょう。この世の生活が望み通りにいかないから、また、途中に障害物があらわれ、思惑通りの満足を得ることができないからです。

 超自然的に神の子であることを固く自覚した生活を営むならば、先に述べたような悲しい状態にはならないはずです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」33。神の子であるということを認めたがらない人は悲しんで当然です。

 最後に、私たちの口と心から矢のように飛び出すべき二つの嘆願を、今日の典礼から引用してみましょう。「全能の神よ、私たちが天の賜物にあずかることができるよう、神性の秘義を行ってください」34。「主よ、あなたのみ旨に従って、いつもあなたに仕えることができますように」35。仕えること、奉仕すること、つまり、「我々の日々に、忠実な神の民が増え、その功徳が増すように、すべての者の召し使いになる」36、これこそ私たちの道なのです。

この点を別の言語で