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主の玉座は一頭のロバ

再び福音書を繙き、鑑であるイエス・キリストに自らを映してみましょう。

 ヤコブとヨハネは、母を仲介者として、主の左右の座を占めることができるようキリストに願いました。他の弟子たちは腹を立てます。ところで主はどのようにお答えになったのでしょうか。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」17。

 カファルナウムに行かれたとき、たぶんイエスはいつもと同じように弟子たちの数歩先を歩んでおられたのでしょう。「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』。そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである』」18。こう仰せになりました。

 イエスのこのような話の仕方をみると感動しませんか。よく分かるように生き生きとした例を引いて教えを説かれます。家の中を走り回っていた幼子の一人を呼び、胸に引き寄せる。なんと「雄弁」な沈黙!それだけでもう何もかもお教えになりました。主は幼子のようになる人に愛をお示しになる。そして、付け加えられます。素直で謙遜な心があれば、天においでになる御父とキリストを抱くことができると。

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