謙遜

1965年4月6日


良い意味での「神化」を偽りの神化からはっきりと区別できるように、聖火曜日のミサの本文に即して、謙遜についてお話ししましょう。謙遜の徳こそ、人間の惨めさと偉大さを同時に教えてくれる徳です。

 人間の惨めさは歴然としています。人間が夢に見ながらも、たとえ時間の不足によるだけにしろ、決して実現できないような大きな憧れに対する限界、つまり人間に固有な限界をいま問題にするつもりはありません。そうではなくて、日々の生活における無分別な行為や種々の失敗、避け得たであろうに避ける努力をせずに犯した過ちについて考えたいと思います。私たちは絶えず自分の無能を思い知らされます。そして時には、これらすべてが同時に、しかもあまりにも明らかに見えるので、自分の無能に打ちのめされてしまいます。どうすればよいのでしょうか。

「主に希望しなさい」1。教会が教えるように愛と信仰と希望をもって生きることです。「雄々しく振舞いなさい」2。神に希望をおいているなら、私たちが土くれであったとしてもかまわないではありませんか。万一、罪を犯し、内的生活に頓座を来たすようなことがあれば、日常生活で身体の健康回復のために用いるような手段を講じなければなりません。そして、再び歩み始めるのです。

高価だが壊れ易い装飾品や花瓶を持っている家族が、それらをどんなに大切に取り扱うかに注目したことがあるでしょうか。ある日、その素晴らしい<想い出の品>が子供の悪戯で砕けてしまいました。がっかりしますが、すぐ修理にとりかかります。かけらを拾い集めて入念に接ぎ合わせ、元のようにきれいに復元します。

 壊れ物が普通の瀬戸物なら、鉄や他の金属の<かすがい>があれば事足ります。このように接ぎ合わされて元通りになった器には、一種独特の魅力が備わっているものです。

 以上を内的生活に当てはめてみましょう。主の恩寵のおかげで大事には至らなかったとはいえ、惨めさや罪、過ちに気づいたならば、父なる神に向かって祈りたいものです。「主よ、貧しく脆くこわれた土器に過ぎないこの私に、<かすがい>をはめてください、そうすれば痛悔する私の心を赦すあなたのおかげで、以前にもまして頑丈で美しい器となることでしょう」。これは、哀れな土くれに過ぎない私たちが、挫折するたびに繰り返すべき心からの祈り、慰めをもたらす祈りと言えます。

 たとえ、自分の躓きに気づいても驚くことはありません。些細なことですぐに駄目になってしまうことが今更ながら分かっても、がっかりする必要はないのです。いつなんどきでも助けの手を差し伸べようと待ちかまえていてくださる主に信頼してください。「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」3。天の御父とこのように親しく接することができるのですから、誰に対しても、何に対しても、恐れなど抱いて欲しくありません。

主に従うために

「謙遜には知恵が伴う」4と箴言にあります。主の声を聞くためには謙遜でなければなりません。謙遜とは、真っ向から自分を見つめ、ありのままの自分の姿を知ることです。そして、ほとんど価値のない自分に気づくと、その時こそ神の偉大さに目を向けることができます。これが人間の素晴らしいところでしょう。

 地上のありとあらゆる被造物に優る貴婦人、御子の母は、謙遜を本当に深く理解しておいでになりました。「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ…」5と聖マリアは主の力を褒め称えます。「身分の低い、この主のしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」6と。

 神の謙遜を目の当たりにした聖マリアは、その汚れない心ゆえに聖なる者となりました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」7。聖マリアの謙遜は、深遠で測り知ることのできない神の恩寵のおかげ、胎内で三位一体の第二のペルソナが人となられた結果であると言えます。

この秘義に思いをはせる聖パウロの口から、喜びの賛歌がほとばしり出ます。ゆっくりと味わってみましょう。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」8。

 主イエス・キリストは、教えを垂れるとき、たびたび自らの謙遜を模範としてお示しになりました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」9。これは、人間が自己の虚無を率直に認めるほかに神の恩寵を引き寄せる道はないという教えです。「私たちのために主は来られた。食べ物を与えるために空腹を覚え、飲み物を与えるために渇きを感じ、不死の体をまとわせるために滅びる人間の肉体を持ち、豊かにするために貧しさのなかに来られた」10。

「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」11と使徒聖ペトロは教えています。いつ、どこででも、聖なる生活を送るには、謙遜に生きる以外に方法はありません。主は、人間を辱めることに喜びをお感じになるのでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。すべてを創造し、その存在を保ち支配する御方が、しょげ返る私たちを見たとて、何を得ると言うのでしょう。神は私たちの謙遜をお望みです。主がお満たしになるために、自らを無にする私たちを待っていてくださる。人間的な言い方ですが、私たちの哀れな心に主の恩寵が満ちるのを妨げてはならないと仰せになるのです。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」12、その神が、謙遜であれとお勧めになります。主は、私たちをご自分のものとし、私たちの良い意味での<神化>を実現してくださるのです。

高慢は敵である

ところで、何が、謙遜な生活すなわち良い意味での<神化>を妨げるのでしょうか。それは高慢です。高慢こそ悪い意味での<神化>をもたらす重大な罪です。些細な事柄においてさえも、「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」13と囁く、サタンの人祖に対する誘惑に屈服させるのが高慢なのです。また、聖書には次のようにも書いてあります。「高慢の初めは、主から離れること、人の心がその造り主から離れることである」14。ひとたび高慢という悪徳にとり憑かれると、人間の全存在が影響を受け、聖ヨハネが「生活のおごり」15と称する状態に陥ってしまいます。

 思い上がる?何についてでしょうか。聖書は、高慢な者を非難して、その悲劇と滑稽さを同時に強調し、次のように言っています。「土くれや灰にすぎぬ身で、なぜ思い上がるのか。だからわたしは、彼のはらわたを、生きているときに、つかみ出してやった。長患いは、医者の手に負えず、今日、王であっても、明日は命を奪われる」16。

自惚れが巣くうと、貪欲と不節制、嫉妬、不正と、すべての悪徳が数珠つなぎになって襲って来ます。別に不思議なことではありません。高慢は、酷く不正な心で行動し、万事に慈悲深い神の玉座を乗っ取ろうとして無駄な試みをするからです。

 このような状態に打ち負かされないように、主に依り頼まねばなりません。高慢ほど悪質で愚かな罪はない。多くの幻影で人をさいなむ。高慢にとり憑かれた人は外見のみを飾りたてて虚しさで自らを満たすのです。ちょうど、お伽噺に登場するあの自惚れに溺れて裂けよとばかり腹を膨らませ続けた蛙のようです。人間的にも高慢はいやなものです。自分を誰よりも勝れていると思う人は、絶えず他人を軽蔑し、自分自身のことしか考えません。そんな人は、いずれ嘲笑の的になるでしょうが。

 高慢について話すのを聞くと、あの横暴で威圧的な態度を想像するかもしれません。熱狂的な歓呼の叫びの中を通り過ぎるローマ皇帝のような勝利者、栄えある額が白い大理石に当たらないように、頭を少し垂れて高いアーチの下を通り過ぎる勝利者のような態度を。

しかし、もっと現実的に考えなければなりません。述べたような高慢は幻想の中にだけ存在するものです。私たちは、もっと微妙でもっとたびたび起こる別の形の高慢に対して戦わねばなりません。隣人よりも自己を優先させる高慢、話しぶりや態度に表れる虚栄心、何の悪気もない隣人の言動に辱めを感じとる病的なほどの猜疑心、―これこそ私たちが戦いを挑むべき敵です。

 いずれも普通に見られる誘惑です。誰でも、自分を太陽のように、つまり周囲を取り巻くものの中心であるかのように考えてしまいます。すべてが自分を中心にして回らなければ気がすまず、人々が労わり可愛がってくれるよう、痛みや悲しみを訴え、果ては病気を装うまでになります。

 内的生活で出遭う困難の多くは、想像の所産と言えます。人はどう言っているだろうか、どう思うだろうか、私のことを考えてくれているのだろうか、などと考えてしまうのです。そして、その哀れな人は猜疑心を起こして、ありもしないことを疑い、哀れな思い上がりのために苦しむ。この厄介で不幸な状態に陥ると、苦々しい気持ちが続き、他人を不安に陥れようとやっきになります。謙遜にならないから、また神を愛するがゆえに寛大に自己を忘れて人々に仕えるすべを会得しなかったからです。

主の玉座は一頭のロバ

再び福音書を繙き、鑑であるイエス・キリストに自らを映してみましょう。

 ヤコブとヨハネは、母を仲介者として、主の左右の座を占めることができるようキリストに願いました。他の弟子たちは腹を立てます。ところで主はどのようにお答えになったのでしょうか。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」17。

 カファルナウムに行かれたとき、たぶんイエスはいつもと同じように弟子たちの数歩先を歩んでおられたのでしょう。「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』。そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである』」18。こう仰せになりました。

 イエスのこのような話の仕方をみると感動しませんか。よく分かるように生き生きとした例を引いて教えを説かれます。家の中を走り回っていた幼子の一人を呼び、胸に引き寄せる。なんと「雄弁」な沈黙!それだけでもう何もかもお教えになりました。主は幼子のようになる人に愛をお示しになる。そして、付け加えられます。素直で謙遜な心があれば、天においでになる御父とキリストを抱くことができると。

受難の時が近づくと、イエスは自らの王威をはっきりと示すため、人々の歓呼を受けてエルサレムに入城なさいます。ところが、ロバにのって。メシアは謙遜の王でなければならないとすでに書かれていました。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」19と。

 さて最後の晩餐においてイエスは、弟子たちに別れを告げるため、すべてを準備なさいました。その間、弟子たちは選ばれた群れの中で誰がいちばん偉いかと、またも果てしのない議論に夢中になっていたのです。イエスは、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」20。

 再び、模範と行いでお教えになります。高慢な思い上がりから夢中になって言い争う弟子たちの前で、イエスは腰を低くして、召し使いの役目を喜んで果たす。それから食卓に坐って、説明を続ける。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」21。キリストのこの優しさには心打たれます。私がこうするのであるからお前たちはおさらそうすべきだとはおっしゃいません。主は自らを弟子たちと同じ立場に置き、強制せずに、彼らの寛大さの不足を優しくお咎めになります。

 最初の十二使徒に対するのと同じく、私たちにもまた、主は示唆を続けておられます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」22と、謙遜の模範をお示しになるのです。柔和で謙遜な心で人々に仕えることをあなたたちが学ぶために、私は召し使いになった、と言われるのです。

謙遜の実り

「偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる」23。もし謙遜ならば主は決してお見捨てにはならないでしょう。神は、傲る者をいやしめ、目を伏せる者を助け上げ、罪なき者を解き放たれる。あなたの手を清く保ちなさい。そうすれば、救われる24。主は無限の憐れみによって、謙遜に呼び求める者にすぐお応えになる。そればかりではなく、そのとき、全能の神にふさわしい助けをお与えになります。たとえ、多くの危険にさらされていても、あるいは四方を取り囲む敵に攻めたてられているにしても、力尽きることはないでしょう。これは、過去の単なる言い伝えではない、今もお起こっていることです。

本日の書簡で、飢えたライオンの間に放り込まれたダニエルの話を読みました。そして、現代でも放たれたライオンが数多く歩き回っており、私たちはそのような環境の中で生きねばならないことを考えました。しかし、悲観するには及びません。一概に、昔は良かったとは言えません。いつの時代にも善と悪が混在しています。ライオンは貪り食う物を探し回っているのです。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」25。

 そのような猛獣をどのようにして避ければいいのでしょうか。ダニエルと同じようなことはぶん起こらないでしょう。私は、奇跡好きではありませんが、主の壮大な力には感服します。預言者の飢えを満たすために、食物を与えるか、あるいは食物のある所へ連れていく方が簡単であったことは確かです。しかしそうはせずに、食物を運ばせるために他の預言者ハバククをユダヤから奇跡的にお移しになりました。神は不思議な奇跡をしてもよいと思っておられたのです。ダニエルが井戸の中にいたのは、悪魔の信奉者たちの不正な仕業です。ダニエルは神の奉仕者、偶像の破壊者でもありました。

 人目を引き驚かせるようなことをしないで、キリスト者として平凡な生活を営み、平和と喜びの「種蒔き人」となって、無理解や不正や無知、また傲慢にも神に背を向ける自己満足などの偶像を倒さなければなりません。

 たとえ、生活環境があの飢えた獣のいる穴にいたダニエルよりもさらに酷い状態であっても、驚いたり、恐れたりはしないで欲しい。神のみ手は昔と変わりなく強力です。必要ならば驚くほどの奇跡さえなさることでしょう。忠実を保ちたいものです。キリストの教えに対しては、確たる自覚に基づいた喜びと心のこもった忠実を保ちましょう。現代が過去より悪くはないこと、主は昔どおりの力強い御方であることを信じて。

 私の知り合いの老司祭は自らの態度を評していつも、「平気、平気」と繰り返していました。私たちもいつもこの司祭のような姿勢を保ちたいものです。飢えたライオンに取り囲まれた世間にいても、平和を失わず、平気で平静、そして、必要ならば主はどんどん奇跡をなさることを決して忘れずに、愛と信仰と希望に生きるのです。

誠実な態度でありのままの自分を示し、高慢からではなく、謙遜から生まれる <神化>を求めるならば、どのような境遇にあっても安全、確実であることを忘れないでください。そうすれば、いつも勝利を謳歌し、勝利者と称されるようになるでしょう。神の愛による勝利、心の落ち着きと幸せ、理解をもたらす勝利を得ることができるのです。

 謙遜は偉大な仕事を完成するように駆り立てます。しかし、そのためには、自己の卑小をただ知るだけではなく、日毎に深く自覚しなければなりません。「数多くの奉仕の仕事を実行すべく義務づけられている、ただの召し使いとしての状態を、ためらうことなく受け入れなさい。神の子と呼ばれることによって肩をいからせてはなりません。主の恩寵を認めながら、同時に人間の本性を忘れてはなりません。単に義務を果たしただけだからです。太陽は義務を果たし、月は従う。そして、天使は任務を遂行します。異教徒のために選ばれたパウロは言います。『わたしには使徒と呼ばれる値打ちはない。神の教会を迫害したのであるから』。(…)私たちとて同じこと、自らの功徳のみを見るならば、人から賞賛されることなど思いもよらないはずです」26。私たちの功徳は取るに足らぬほど僅かなものですから。

謙遜と喜び

「人間がもつすべての邪悪から解放してください」27。ミサの本文は再び良い意味での <神化>について語ります。悪への傾きと共に人間の悪しき性質を示した後で、「あなたの光を送ってください」28、あなたの光と真理を送り、私を導き、あなたの聖なる山に連れて行ってくださいと嘆願します。この昇階誦を朗読すると深い感動を覚えずにはいられません。

 良い意味での<神化>を実現させるために、何をすべきでしょうか。福音書には「イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった」29と書いてあります。望みさえすれば敵を追い払うことができましたが、主はそうはせずに手立てを講じました。神であるキリストは思いのままに情況を変えることができたのに、ユダヤに行かず、私たちに良い教訓を残してくださいます。「イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい』」30。彼らは見世物的なことを望んでいたのでした。ここに、良い意味での<神化>と悪い意味での<神化>に関する教えのあることがお分かりでしょう。

 良い意味での<神化>は奉献文で歌われるように「み名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」31と主に希望します。そして遜る人の喜びがあとに続きます。「貧しい人の叫びをお忘れになることはない」32と。

謙遜の徳を、あたかも人間的な意気地なさであり、永遠に続く悲しみであるかのように話す人を、決して信用してはなりません。かすがいで繕われた脆い器であると感じることは、絶えることのない喜びの源であるはずです。神のみ前では本当に幼い子供に過ぎないことを認めることだからです。哀れで弱い自分を自覚すると同時に、神の子であることを知っている人の喜び以上に大きな喜びがあるでしょうか。なぜ、人間は悲しむのでしょう。この世の生活が望み通りにいかないから、また、途中に障害物があらわれ、思惑通りの満足を得ることができないからです。

 超自然的に神の子であることを固く自覚した生活を営むならば、先に述べたような悲しい状態にはならないはずです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」33。神の子であるということを認めたがらない人は悲しんで当然です。

 最後に、私たちの口と心から矢のように飛び出すべき二つの嘆願を、今日の典礼から引用してみましょう。「全能の神よ、私たちが天の賜物にあずかることができるよう、神性の秘義を行ってください」34。「主よ、あなたのみ旨に従って、いつもあなたに仕えることができますように」35。仕えること、奉仕すること、つまり、「我々の日々に、忠実な神の民が増え、その功徳が増すように、すべての者の召し使いになる」36、これこそ私たちの道なのです。

マリアをごらんなさい。これほど深い謙遜をもって神の計画にあずかった人がいたでしょうか。主のしため37の謙遜は、聖母マリアを私たちの喜びの源として呼び求める動機でもあります。エバは、神と同等になるという気違いじみたことを望んで罪を犯し、恥じ入って神から遠ざかり、悲しみに陥りました。マリアは、主のしためであることを宣言し、<みことば>の母となって喜びに満たされました。この良き御母の喜びが私たち全員に<感染>しますように。謙遜において聖母マリアに似ることができますように。私たちがよりキリストに似たものとなることができますように。

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